畳の上で息を殺していると、部屋に近付くひとつの足音に気が付いた。
といっても忍び足でもなければ、その音を隠そうともしていない。

どす、どす。と剣道における摺り足など毛頭も気に掛けないとばかりに歩くこの男の癖を、私は会ったそのときから知っていた。

和室の中央には千鶴が寝息を立てている。

千鶴の護衛専門のくノ一として雇われてから、よりいっそう警戒心が求められるというのに丑の刻に部屋を訪れる男のことだけは憎めずにいた。

正座を崩して引き戸に迎えば、丁度よく足音もそこに止まる。
互いに何も言わずとも引き戸を境に、背を合わせるようにして座った。


「暇」


藤堂の一言に思わず口許が緩んだ。


「なにゆえ私に言う? 私は護衛なのだから千鶴が眠っているときこそ責任を果たさなければならない。相手などしてやれないというのに」
「話し相手にはなってくれるだろ」
「声で千鶴が起きる」
「そしたら一緒に遊ぼうぜ」


藤堂は本当に頓狂な思考をしている。とはいえ会話のために戸へと移動してしまう私も大概ではあるけれど。

布団の中の千鶴はまだ起きる気配はなかった。こちらに背を向けて眠る千鶴の体はとても華奢に見える。


「まあいい。それで、どうした」
「…何が」
「女忍を侮るな。声色で心の内くらい察する。何があった」


藤堂は答えなかった。
代わりに深い溜め息が聞こえてから、戸に寄り掛かる気配があった。
さすがに戸が外れるとは諌めてやれず 、私自身も戸に背を預けて取り敢えずの均衡を保った。それでも僅かに藤堂の体重の方が重く、戸が軋む。

藤堂の背は丸く沈んでいるようだった。


「なんか疲れた」
「そうか」
「いつか俺も狂って死ぬのかな」
「そうかもな」


羅刹になってしまった彼には、非情ではあるが起こりうる未来だった。
また沈黙が続いた。そしてまたぽつりと藤堂が口を開いた。


「ひとつ、頼んでもいいか?」
「内容による」
「介錯人になってくれ」


今度は私が嘆息つく番であった。
戸に頭を力なくつけると、藤堂もそれに倣った。
戸越しに頭が合わさる。

私の視線の先にあるのは月夜の筈なのに今は和室の天井しか見えない。薄く膜が貼られたような濁った視界はあまり心地のいいものとは言えなかった。
闇に生きるくノ一といえど、闇を好むかは別である。

私は呟き、問うた。


「自害するのか」
「しねーけど。ただ俺がどうしようもなくなったときは、頼む」


私は瞑目した。
視界が暗転する。


「私の前で狂気に堕ちきったとすれば、そうしてやろう」
「…わりぃ」
「何を言う。介錯は腕の立つものが選ばれる。藤堂は私を選んだ。信頼の証だろう。礼を言おう、私を選んでくれて有難う」


言うと、藤堂が立ち上がる気配があった。
途端、背後にあった戸が引き開けられた。
驚いて振り返ろうとするも敵わず、気付けば藤堂の腕の中にいた。咄嗟に苦無(くない)を構えてしまった悲しい癖を持った右手の行き場がなくなって、さ迷うように床に落ちる。


「違う」


藤堂が呟いた。震えている背中をあやしてやれば私を抱く腕の力がより強まった。


「何が違う」
「アラシが忍じゃなくても頼んでた。強いからじゃねえ。そうじゃねえんだ」
「そうか」
「せめて最期はお前がいいんだ、それだけなんだ」
「そうか」
「…言ってる意味わかってんのか?」
「ああ、わかってるよ」
「…本当かよ。アラシはどうも表情が読み取れねえからなあ」
「忍の性(さが)というものだ、許せ。もう行け、山南の傍にいてやるのだろう」
「…そうだな。また来る」
「いや、来てくれるな。次は私が会いに行こう」
「明日?」
「ああ、明日」
「約束な」
「約束する」


それから藤堂は立ち上がって、もう私を見ることもなくあの足音で廊下を歩き進んで行った。せめて戸くらい閉めて行けとも思ったが、仕方なく閉じてやる。

向き直って、苦笑した。

先と変わらない姿勢で布団に埋まる千鶴。
そこに歩み寄って、膨れ上がった布団に手を置いた。


「泣くなよ」


呟けば千鶴の嗚咽が布団から漏れ始めた。
顔を見せないように、努めて声を押し殺している。

どこから話を聞いていたのだったか。この涙からして介錯を頼まれた内容は聞かれてしまったのだろう。


「仕方のないことだ。他の誰かに殺されるくらいなら、だろう」


千鶴の嗚咽は止まらなかった。


「…こんなの、つらすぎます…!」


千鶴の悲痛に、私は遠くを見た。
そこにはやはり壁と天井しかない。

彼との未来もこのようにしてあと僅かで隔てられてしまうのかもしれない。
手を伸ばしてももう届かない、あの戸の向こうに消えてしまうのかもしれない。
それでも私は生きていくのだろうと思うと、ひとりで過ごすのはどうしていたのだったか、とんと忘れていることに気付いた。

吐き出すように言った。


「そうだな」


死を望んだ彼も、死を望まれた私も、どちらの気持ちも聞いてしまった千鶴も、誰も幸せなど感じていないのだろう。
あの赤い薬は何をも産み出してはいなかった。あるとすれば、地獄を作り上げただけだ。

それからずっと、千鶴が泣き止み、疲れて眠るまでその体を擦ってやった。

眠る千鶴の目から涙が流れる。闇夜に赤い薬が滴ったように見えた。





地獄の幕開け
(たった一滴で堕ちるというのなら、たった一振りで救ってやる)
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -