千鶴が斎藤から剣術の稽古を受けている。
道場は隊士が使っているため、中庭での訓練なのだが、千鶴は実に真剣で、かつ楽しそうに取り組んでいた。普段、あまり動き回れないからこそ希少な時間なのだろう。

夕暮れが近いのか、日が傾きつつある。二人の影が間延びして、地面に色濃く落ちている。
私は二人を縁側から見守っていた。


「遅い」
「はい!」
「刀を降り下ろす速さを意識しろ」
「はい!」


千鶴の返事は聞いていて心地がよいほど明瞭だった。あの子は見かけによらず頑なで、強いからなあ。

そんなことを考えていると、ふと気配があった。
振り返れば、土方が廊下を歩いてくる姿が見えた。
土方は私の隣に立って、やはり微笑みながら稽古を見やる。


「休まねえのか」
「今は烝が布団を使っている。疲れているらしいから、寝かせておく」
「…俺の部屋、使うか?」
「まだ千鶴を見ていたいんだ」


私は千鶴の対鬼の護衛専用の女忍として雇われている。烝とは日中に交代で寝るのだが、今日のところは起こさないでやっていた。

しばらく風間千景が姿を現していないことから、護衛の任を解き、本来の忍の勤めに戻るよう命令があった。いずれ、いや、早いうちにそうなるだろう。
すると急に物淋しくなってしまって、寝る間も惜しんでしまったのだ。

近藤には話したのだが、土方には言っていない。
伝えなくてはならない。

土方が私の隣に腰を落とした。


「土方」
「なんだ」
「本部から連絡があった。私は、戻るよ」
「…いつ」
「わからない。千鶴には言うな。他の幹部にも。忍は影だ。去るときも静かに消えていくのが鉄則だ。だから近藤と土方にだけ伝えていく」
「あいつ、泣くと思うぞ」
「だろうな」
「…今夜、発つつもりなんだろ」


私は答えなかった。
千鶴が転んでしまって、立ち上がるのを斎藤が待っている。まるで兄妹のようだ。

きっと大丈夫だ。
私がいなくても、もう大丈夫なのだろうと思う。


「山崎にも言わないつもりか」
「烝はもう慣れているよ。『またか』くらいにしか思わないさ」
「わかった」


どうやら稽古を終えるようだった。
礼をした千鶴が小走りで戻ってくるのを、立って出迎える。


「強くなったって、褒めてくださいました!」
「ああ、千鶴は強くなったよ。な、土方」
「そうだな」


土方は笑っていなかった。



 * * *



夜中。
千鶴が熟睡しているのを見届けて屯所を後にした。

夜道は提灯を持っていなければ漆黒の闇で、頭巾を被ってしまえば文字通り、溶け込める。
風呂敷に包んだ僅かな荷物を背に掛けて、走り出そうとすると、土方が屯所から出て来た。


「一杯、飲んでいけ」


何をするかと思えばお猪口を取り出して日本酒を注ぎ、差し出してきた。受け取ると、土方自身にも注ぎ、いっきに煽る。
よくわからないながらも、餞別のつもりなのかもしれないと思いつつ酒を飲んだ。


「持っていけ」


そして土方が使っていた髪結いを渡してきた。
髪がほどけて、風に吹かれると軽やかに髪が舞う。土方の香りが強く嗅覚を刺激した。

受け取る。


「何か寄越せ」
「私のものを? といっても、大したものはないのだが…」
「いつも身に付けてるものなら何でもいい」


そう言われても困ってしまうのだが、仕方なく肌身離さず持っている苦無(くない)を一本、手渡した。
土方は苦笑とも取れる笑みを溢した。


「色気ねえな」
「仕方がないだろう。ところで、もう行くぞ」
「待て。わかってんだろうな。今の、結納だからな」
「…は?」
「酒を飲み交わし、品を交換する。結納だ。俺はお前以外の女を女房にはしねえ。お前が忍を引退したら、俺が貰ってやる。だからお前も、俺以外の男に貰われるな」


頓狂な物言いに驚いて、一瞬、間が空いた。
土方なりの、精一杯考えた告白なのだと思うと可笑しくて、顔布の中で笑ってしまう。くつくつと声を抑えて一頻り笑うと、頷いた。


「わかった。引退したら、土方の嫁になろう」
「ああ。夫になってやる。だから、死ぬなよ。絶対、死ぬんじゃねえぞ」
「土方もな。じゃあな――」


旦那様。
と言ってやると「馬鹿野郎」と頬を赤らめて返した土方は素直なのだか捻くれているのか、よくわからなかった。

夜闇の中を影のごとく溶け込んで、風のように走り続ける。

千鶴はいない。
嫌味を言う沖田も、うるさい藤堂も、暑苦しい永倉も、やたらと絡む原田も、物静かな斎藤も、冷静な山南も、いつも助けてくれる烝も、誰もいない。もう誰も。

訓練されている。
他の誰にも依存しないように、ひとりでも生きているように訓練しつくしてきた。
寂しさを感じているこの未熟な心を圧し殺していても、やはり締め付けられる。

泣いてしまうかもしれないと思っていた。

静かに去ると言ったのは、きっと会えば別れの挨拶など言ってやれないとわかっていたからだ。

けれど泣かずに走り続けていられるのは、土方の粋な計らいのおかげだろう。

離れていても、土方がいる。
そう思うと、自然と足は軽やかになっていた。

何十年後になるかわからない。

それでも、いつか果たされるであろう約束があるのは生きる支えになる。


「またな」


私と土方の声が風に乗った気がした。





忍は影
(翌朝、すべてを知った千鶴は大泣きし、烝は「またか」と寂しく笑った)
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