「アラシ」
呼び声に振り返ると、そこにはギンがいた。
いつものように何を考えているのか悟らせない蛇にも狐にも似た笑顔を浮かべて、ひらひらと胸の高さで手を振っている。少しばかり首を傾げてみせるのは、そうすれば愛嬌のよさを表せるという知恵からくるもので、したたかな性格をしているのだとすぐにわかる。
ただ今日はそんなギンの裏の顔を気にすることはなかった。
どうしてなのかは、すぐにわかった。
「あ、死覇装!」
ギンが死覇装を着ているからだ。
一度は死神を裏切ったギンが、謝罪して死神に戻してもらえたのはつい先日のこと。
破面である私がギンの死覇装姿を見るのは初めてだった。
「似合うねえ」
「せやろ。何でか知らんけど、僕もこれが落ち着く。言うても、また下っ端から、やり直しやけどな」
「いいじゃん、いいじゃん。羽織のないギンとか新鮮すぎるわ」
そして私達は現世の民家の屋根に並んで座り込んだ。
私があらかじめ用意していたお茶と干し柿を間に挟んで、会話を楽しむことにする。
ギンは好物の干し柿には手をつけず、青空を見上げて微笑んでいた。膝を抱えて、猫背になっている。そういえば猫にも似ているかもしれない、なんて呑気に考えていた。
「今日はひとりで来たん?」
「そうだよー。グリムジョーとノイトラには、ちゃんとギンと遊んでくるって言っておいた」
「さよか。どのくらい一緒にいられるん?」
「うーん。夜ご飯までには帰ろうかな。死神も仕事があるんでしょ?」
「せやな」
そうして私は干し柿を温かいお茶で胃に送った。
すると、ふわりと髪を撫でられた。
「綺麗な黒髪やねえ」
「うん? ギンはいつも髪を褒めるよね」
「肌も綺麗やし、睫毛も長いし、凄いなあ」
「今日はよく褒めるね」
「なあ、腕だしてや」
「ほいよ」
右腕を差し出すと、ギンは私の袖を捲って、何も言わずに注射針を突き立てた。
「え!? なに!?」
ちくりとした痛みを感じて反射的に腕を引く。
が、ギンの腕力がそれを許さなかった。
注射器に入っていたたっぷりの薬液が私の体内へと押し込まれていく。
血流に乗った液体が沸騰しているかのように、熱が身体を駆け巡った。それこそ燃えていると思うほどに。
「あっつ…! ギン、なにしたの」
「ああ、美しい。美しいネ。君のその体に何が秘められているのか研究するのが楽しみだヨ」
ギンの口調が急に変わった。
かと思うと、ギンの頬がごっそりと垂れ下がり、体がどろどろに溶けていく。
そうして姿を現したのは――。
「くろつち…マユリ…!」
戦闘に出たことのない私でも毒々しいその姿を知っている。研究のためなら道徳を厭わない猟奇的な死神であることを知っている。
マユリは小首を傾げて、私を抱き締めた。
熱い。体が熱い。
「行こう。君を調べ尽くしてあげるからネ。安心したまえ、殺しはしないヨ」
目眩のせいで世界が揺れる。
真新しい死覇装に寄り掛かったのは、瞬く間もなかった。
* * *
数分後。
待ち合わせ時間よりも遅刻してきたギンが屋根にいた。
「アラシー。おらんのー。アラシー」
屋根には誰もいない。
珍しく仕事に真面目に取り組んで早く終わらせて来たというのに、待ち合わせの相手はどこにもいなかった。
「せっかくお茶と干し柿、持って来たのになあ。まあ、すぐ来るやろ」
静けさは時に不吉である
(疑うがいい。世界は考えているよりもずっと、残酷なのだから)
次回へ続く
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