場所はアパートのトタンの三角屋根の上。
時は虫をも眠る刻。
俺は独りで立ち尽くしていた。
そして月に手を伸ばそうとして、辞めた。
届かないことを知っている。
無駄なことはしたくない。
そして届いてほしいとも思わない。
言いながらも、届かないと知っているのにアラシに手を伸ばした自分を思い出して自嘲した。
アラシは毎日ここにいた。
雨だろうが嵐だろうが雪の日だろうが、うだるような暑い夜だろうが、とにかくここにいた。
アラシを置いていったグリムジョーを待っているのだと知っていた。
グリムジョーはまた戦いの場に赴いて、危険な目に合わせまいとアラシを置いていったのだ。
たった独りで待つアラシを見ていられなくて、小さな背中に声をかけたあの日を忘れない。
他の好きな男を待つ俺の好きな女と過ごした日々を忘れない。
たとえそれが僅かだったとしても、短くて、あっという間だったとしてもそれさえあればまた生きていける。
グリムジョーがアラシのもとに戻った。
それはもう知っていた。
なのにここに来てしまった俺は相当毒されているらしかった。
狭い屋根だと思っていたのに、独りではひどく広い檻のように感じられる。
見覚えのある小さな体がどこにもなくて、ぎゅっと胸を抉られるような気がした。
もう俺には用がないのだから、当たり前だ。
前を見据える。
地平線など、ありはしない。
他のやつより届きそうで届かない。
他のやつが見る世界より広くて汚いものが見えるこの高い視野。
なるほど確かに、よりいっそう孤独を感じる。
他より高い視界っていうのは、そういうことだ。
明日からどうやって日々を過ごして行こうかと考えていると、ふと屋根の端を細い腕が掴んだのが見えた。
はっとして、思わず見入ってしまう。
期待している自分がいた。
「よいせ。よいせ。ほっ!」
アラシは器用に屋根に上ってきた。
俺がいるのを見越していたかのように駆け寄ってくる。
小さな小さな体で、真っ直ぐ強い眼差しを俺に向けてきた。
昨日までとは違う、充実した瞳だった。
「何、してんだ」
「グリムジョーが帰ってきたの」
嬉しそうに笑う。
また抉られるような痛みが走った。
アラシが笑ってくれればいいと思って声を掛けたのに、笑顔にしたのが俺ではなくて、さらに今この瞬間もお前の心に俺がいない事実に絶望を想う。
何も返せなかった。
「ね、ノイトラ。また肩に乗せて」
「なに言ってんだ。早く行けよ」
「いいから。肩に乗せて」
小さな手で服の裾にすがるアラシを断りきれずに、俺は軽々と持ち上げて左肩に乗せてやった。
落ちないように支えてやる。
アラシはまた空を見たり地平線を探してみたり嬉々としている。
何をしに来たのか、わからないほど俺だって馬鹿じゃない。
でも、出来ることなら早く去って欲しかった。
どうせ別れを言うのなら、たったの一言を残して一刻も早く去って欲しかった。
そうでなければーー
泣いてしまう。
届きそうで届かないものに手を伸ばした俺は結局、その距離を実感してひとり傷付いている。
抉られている。
これ以上にないほど打ちのめされている。
だから早く去って欲しかった。
もうこれ以上、胸を抉らないで欲しかった。
すると急にアラシのバランスが崩れた。
危ないと思って力を込めるより先に、アラシの胸に抱かれているのを感じて、それが出来なくなってしまう。
抱かれている。
アラシの髪がすぐそばにあって、吐息があって、香りがあって、本来なら身長差ゆえに叶わないはずの両腕で顔をまとわるように抱かれていて。
涙が出た。
我慢していたのに。
耐えていたのに。
そう努めていたのにそんなことをされたら感情が溢れてしまう。
その小さな細い腕で一生懸命に俺を抱くアラシ。
震えるその力が愛おしさをさらに加速させるのだと、お前はわかっているのだろうか。
そしてそれが何より残酷な行為だとも。
「ありがとう。ノイトラのおかげでグリムジョーを待てた。本当に、ありがとう」
抱き締められているから顔は見えない筈だ。
ここで返さなければ、不振に思ったアラシが俺の顔を覗き込んで涙を見られてしまうかもしれない。
俺は震える唇で小さく息を整えて、ようやく声を出した。
「わかってる。早く行けよ」
「本当に?」
「ああ」
「寂しくて、泣かない?」
ああ。と言った俺の声は、揺れていた。
情けないほど、揺れていた。
言った傍から嘘なのだから、アラシが知ったら笑われてしまうだろう。
俺自身そう思えるのだから。
「わかった。行く。でも、時々また会ってくれる? 違う世界を見せてくれる?」
なんと残酷な願いなのだろう。
これで終いにしてくれれば慟哭をあげて結びに出来るというのに、それすらもさせまいとするこの無垢な残酷さ。
そんなことしてやるもんか、と強がりはついぞ言えず、言えたのは、心からの言葉だった。
「いつでも」
結局、お前を追うことしか出来ない。
さよならの先に
(もっと深い絶望が待っている)
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