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「あ」
そう声を洩らしたのは向かいに座っていたサンジだった。
次に「あ」と呟いたのは私で、最後は食堂にいた皆が口を揃えて「あ」と言った。

それは私が鼻血を出したからだ。

粘着質な鼻水より幾分かサラサラとした生暖かい血液は、鼻唇溝を伝って手の甲に滴った。咄嗟に拭うと手に血の痕が伸びていく。料理が乗った皿にまで垂れてしまいそうになって、慌てて立ち上がった。


「ごめん、ちょっとティッシュ取って来る」
「診察室にある! 俺が取って来るから安静にしてろ!」
「大丈夫、大丈夫。ご飯食べてて」


チョッパーの有り難い申し出を断って、診察室に向かおうとすると「ぎゃあああ」と泣き声がして肩が跳ねた。そのせいでフォークとスプーンをがちゃがちゃと落としてしまい、拾おうとする。でもうまく掴めなくて、何度も取りこぼした。数度目でテーブルにカトラリーを戻す。
泣き声は、振り返らなくてもわかる、赤ん坊の声だ。
ナミの横に置いたベビーカーの上ですやすやと眠っていた赤ん坊が起きてしまったのだ。というのも、船を波止場に停泊させる代金の代わりに2日預かってくれという訳のわからない対価のせいで、一昨日から船に赤ん坊がいるのだ。
私は子供が嫌いだ。大嫌いだ。
存在だけならまだ一万歩譲って認めたとして、赤ん坊の泣き声は頭が痛くなる。

泣き声が聞こえた瞬間、心なしか鼻からの出血がどろりと増えた気がして、ナミ達があやす赤ん坊を見もせずに診察室に入った。

デスクの上にあったティッシュを何枚か取って鼻に突っ込む。

ぎゃあああ。

まだ泣き声は続いていて、耳鳴りがした。

ああ痛い。
耳が痛い、頭が痛い。
がんがんと響く赤ん坊の声が鬱陶しくて、出て行けと言わんばかりに自分の頭のコメカミあたりを叩いた。

もちろん泣き声は耳から聞こえてくるのであって、頭を叩こうが消えるはずはない。
それでも何かをしていないと苛々してしまって、「うーん、うーん」と呻きながら叩き続けていた。

甲板に出ることにした。

風が気持ちのいい朝だ。船首まで進むと、幾分か気分も晴れる。

――はずがなかった。

泣き声が耳にこびりついて離れない。


「うーん、うーん」


あれは神経を逆撫でする声だ。
超音波みたいに不愉快な音だ。
母親になる人は、よくもまあ、あんなものを産めるなあと常々思う。自分の行動も時間も制限される上にうるさくて、小さくて、足手まといになるだけなのに。
彼女達は何と高尚な人間なのだろうか。あんなものに見返りを求めない愛情を注ぐだなんて、理解が追い付かない。


「うーん、うーん」


歩き回りながらぼこぼこ頭を殴っていると、急に手首を握られて制された。

振り向けば、やっぱりゾロ。

ゾロはどうしてか、こういうことに敏感に気付いて後を追って来てくれる。
ティッシュ詰めの鼻を見て、笑ったのは許してやろう。


「余計に血が止まらなくなるぞ」
「うん。でも頭が痛くて」


ぐりぐりと爪を立ててコメカミを揉むと、ゾロの手が代わりにそれを引き継いでくれた。
しかも優しい。力が程よい。体温の高いゾロの手は固くて気持ちがよかった。


「本当に子供嫌いだな。ストレスで鼻血だすとか初めて見た」
「え、そういうことなのかな。単に鼻炎か何かだと思ってた」
「馬鹿じゃねえの? お前以外の全員がわかってるぞ」
「マジか。仲間すげえ」
「まあ嫌いっていうより『怖い』んだろうけどな」
「それも無自覚だったわ」
「とにかく鼻血が止まるまでは俺に集中してろ」


そして両耳を両手で塞がれた。
ぷに、と頬まで潰されるほどの力を込められた理由はわからないけれど、ゾロなりの優しさだというのはわかるので振り払わないでおく。

ゾロが手で押さえたままの私の耳に何かを言った。

急に鍛えられた首と鎖骨と胸筋が目の前に迫って、太陽光が遮られる。
男らしい喉仏が上下したのがわかった。
かと思うと、すぐに両手を離して顔を覗き込んで来た。


「聞こえたか?」
「聞こえない」


案外、聞こえねえもんなんだな。とか言いながら、そんな動作を三回繰り返した。
するとゾロは勝手に満足したのか、口許に笑みを携えている。


「鼻血、止まっただろ」


そういえばとティッシュを取り出してみれば、確かに血は止まっていた。


「すご。ありがとう」
「おう。あと少し、ここにいろよ。お前が子供苦手な理由は、皆わかってるから」
「うん、すまん。ありがとう」


食事の途中だったのか、ゾロは再び食堂へと戻っていった。
それを見届けたあとで私はその場に寝転がって、ゾロの言葉を思い返す。

空が眩しく見えた。

本当は全部、聞こえてた。





好きだ、可愛い、キスしたい
(悪戯だったのか、それとも)

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