[ 1 / 1 ] 「あ」 そう声を洩らしたのは向かいに座っていたサンジだった。 次に「あ」と呟いたのは私で、最後は食堂にいた皆が口を揃えて「あ」と言った。 それは私が鼻血を出したからだ。 粘着質な鼻水より幾分かサラサラとした生暖かい血液は、鼻唇溝を伝って手の甲に滴った。咄嗟に拭うと手に血の痕が伸びていく。料理が乗った皿にまで垂れてしまいそうになって、慌てて立ち上がった。 「ごめん、ちょっとティッシュ取って来る」 「診察室にある! 俺が取って来るから安静にしてろ!」 「大丈夫、大丈夫。ご飯食べてて」 チョッパーの有り難い申し出を断って、診察室に向かおうとすると「ぎゃあああ」と泣き声がして肩が跳ねた。そのせいでフォークとスプーンをがちゃがちゃと落としてしまい、拾おうとする。でもうまく掴めなくて、何度も取りこぼした。数度目でテーブルにカトラリーを戻す。 泣き声は、振り返らなくてもわかる、赤ん坊の声だ。 ナミの横に置いたベビーカーの上ですやすやと眠っていた赤ん坊が起きてしまったのだ。というのも、船を波止場に停泊させる代金の代わりに2日預かってくれという訳のわからない対価のせいで、一昨日から船に赤ん坊がいるのだ。 私は子供が嫌いだ。大嫌いだ。 存在だけならまだ一万歩譲って認めたとして、赤ん坊の泣き声は頭が痛くなる。 泣き声が聞こえた瞬間、心なしか鼻からの出血がどろりと増えた気がして、ナミ達があやす赤ん坊を見もせずに診察室に入った。 デスクの上にあったティッシュを何枚か取って鼻に突っ込む。 ぎゃあああ。 まだ泣き声は続いていて、耳鳴りがした。 ああ痛い。 耳が痛い、頭が痛い。 がんがんと響く赤ん坊の声が鬱陶しくて、出て行けと言わんばかりに自分の頭のコメカミあたりを叩いた。 もちろん泣き声は耳から聞こえてくるのであって、頭を叩こうが消えるはずはない。 それでも何かをしていないと苛々してしまって、「うーん、うーん」と呻きながら叩き続けていた。 甲板に出ることにした。 風が気持ちのいい朝だ。船首まで進むと、幾分か気分も晴れる。 ――はずがなかった。 泣き声が耳にこびりついて離れない。 「うーん、うーん」 あれは神経を逆撫でする声だ。 超音波みたいに不愉快な音だ。 母親になる人は、よくもまあ、あんなものを産めるなあと常々思う。自分の行動も時間も制限される上にうるさくて、小さくて、足手まといになるだけなのに。 彼女達は何と高尚な人間なのだろうか。あんなものに見返りを求めない愛情を注ぐだなんて、理解が追い付かない。 「うーん、うーん」 歩き回りながらぼこぼこ頭を殴っていると、急に手首を握られて制された。 振り向けば、やっぱりゾロ。 ゾロはどうしてか、こういうことに敏感に気付いて後を追って来てくれる。 ティッシュ詰めの鼻を見て、笑ったのは許してやろう。 「余計に血が止まらなくなるぞ」 「うん。でも頭が痛くて」 ぐりぐりと爪を立ててコメカミを揉むと、ゾロの手が代わりにそれを引き継いでくれた。 しかも優しい。力が程よい。体温の高いゾロの手は固くて気持ちがよかった。 「本当に子供嫌いだな。ストレスで鼻血だすとか初めて見た」 「え、そういうことなのかな。単に鼻炎か何かだと思ってた」 「馬鹿じゃねえの? お前以外の全員がわかってるぞ」 「マジか。仲間すげえ」 「まあ嫌いっていうより『怖い』んだろうけどな」 「それも無自覚だったわ」 「とにかく鼻血が止まるまでは俺に集中してろ」 そして両耳を両手で塞がれた。 ぷに、と頬まで潰されるほどの力を込められた理由はわからないけれど、ゾロなりの優しさだというのはわかるので振り払わないでおく。 ゾロが手で押さえたままの私の耳に何かを言った。 急に鍛えられた首と鎖骨と胸筋が目の前に迫って、太陽光が遮られる。 男らしい喉仏が上下したのがわかった。 かと思うと、すぐに両手を離して顔を覗き込んで来た。 「聞こえたか?」 「聞こえない」 案外、聞こえねえもんなんだな。とか言いながら、そんな動作を三回繰り返した。 するとゾロは勝手に満足したのか、口許に笑みを携えている。 「鼻血、止まっただろ」 そういえばとティッシュを取り出してみれば、確かに血は止まっていた。 「すご。ありがとう」 「おう。あと少し、ここにいろよ。お前が子供苦手な理由は、皆わかってるから」 「うん、すまん。ありがとう」 食事の途中だったのか、ゾロは再び食堂へと戻っていった。 それを見届けたあとで私はその場に寝転がって、ゾロの言葉を思い返す。 空が眩しく見えた。 本当は全部、聞こえてた。 好きだ、可愛い、キスしたい (悪戯だったのか、それとも) list haco top |