とてもじゃないけれど誰かと顔を合わせられる気分ではなかった。下品な男に絶えず煙草の煙を顔に吹きかけられているような気分だ。そのろくでもない男は際限なく俺の目に、鼻に、口に、胸糞悪いその毒の煙を吐きつけている。このままだと瞳がグリーンからグレイに変わってしまいそうだ。グリーンの瞳なんてもともと好きではなかったけれど、グレイになんかなってしまったら俺はついに、安い筋書きの推理映画に出てくるようなしめっぽいこの街に完全に同化してしまうだろう。真っ黒な血を飛び散らせる顔のない男として俺はフィルムの海に沈み、二度と浮き上がってはこられないのだ。
俺は雲のような霧に包まれた街中で立ち止まり、コートのポケットに手を突っ込むとやくざなため息をついた。白い呼気が大袈裟に立ち昇る。馬鹿げている。要するに、俺は疲れているのだ。疲労はくすんだ金髪の先端に至るまで染みわたっていた。瞬きのひとつすら億劫だ。こんな疲弊は不条理だとさえ俺は思った。
湿気をはらんで一層みすぼらしい色合いとなった前髪を、頭を振ることで軽く払って再び歩き出す。両側にアパートメントが建ち並ぶ道路に差し掛かり、その中のひとつである自分の家に目を向けると、今にも枯れてしまいそうな街路樹の幹の間から奇抜な色が目に飛び込んできた。それはどう考えてもミスマッチでアンバランスで、身体に行き届いた疲労さえなければ俺はすぐに引き返し、違えたはずのポイントを探し出そうとしたことだろう。(実際にはそこは正真正銘俺が帰ることを許されたただひとつの家であったが。)しかしまともにものを考える勇気は湧いてこなかった。いいじゃないか、かまうものか。俺はほんの少し開きかけた口を再び一直線に締めて歩き続けた。
そこには名前がいた。この気温の中冗談みたいな薄着をして、頭に合わないパナマ帽を斜めにかぶっている。彼女は鉄格子のように頑丈そうな鈍色の旅行鞄の上にさらけ出された両足を乗せ、霧が降っているというのに器用に煙草を吸い、鉛色の空気に薄鼠の煙を入れ込んでいる。帽子のつばが耳の上で切り揃えられた彼女の髪と目許を、重罪人のように慎重に隠し通しているので表情はうかがえない。そして俺が何より驚いたのは、俺の家の玄関の扉が淡い水色で完璧に塗りつぶされていたことだ。先程幹の間から覗いた際に感じた奇怪の正体である。扉の表面はカップケーキのクリームを丁寧に塗り込んだようになめらかで、少なくとも扉自体に不自然なところは何一つない。けれどもちろん、周囲の風景を加味すればその扉は毒々しいほどの異質を放っている。一体何の冗談だ、と思ったがその言葉は脳髄の中で排水溝に吸い込まれ、たちまち何処かへ消え失せてしまった。
彼女はアリスブルーの扉の前で煙を吸い、そして吐き続けた。たっぷり一分の間、俺たちの間には明らかな拒絶を思わせる空気が親密に漂っていた。何だってこんなに疲れている日に彼女は俺の前に姿を現すんだろう。俺は滅茶苦茶な彼女の馬鹿げた帽子を取り上げて宙に投げた。男の子みたいに短い彼女の髪は唸るように立ち上がると、すぐにしなだれた。
「やあ、アーサー」
名前は俺を一瞥すらせずにそう言ったあとで煙草の火を扉に押し付けて消し、石に語りかけるような声で「愛すべき弱虫坊や」と言った。先程俺の顔に煙を吐きつけていたのは彼女だったのかもしれない、と俺は思った。彼女は濡れないよう気を配りながら新しい煙草に火を点ける。
「口には利き方ってもんがある」俺は鼻を啜った。厚いコートを必要とするこの季節において彼女の服装はどう考えても滑稽だった。
「あなたに利く口と言ったら、夜の間枕元でずっと『ヘンリー8世君』を歌うくらいのものだね」唾でも吐くように言った彼女はじっと煙草を吸い続けた。サムの真似をし始めないだけ良心的である。
「あの頃のデミ・ムーアは好きだよ。そういえばお前は少し似ているな」
「ふうん」
彼女は俺の言ったことについて深く考え込んでいるようにも見受けられたし、あるいは全く耳を傾けていないようにも思われる。まず間違いなく前者ではないと判断したが彼女の心持ちを慮る余裕はなかったので、とりあえず俺は話を続けた。
「どうしてそんな恰好をしているんだ」
「大丈夫だよ。全然寒くないんだ」
「コートを貸してやる」
「本気でそう思ってるならとっくに貸してくれていると思うけど」彼女は取ってつけたように肩をさする仕草をした。
「そうだな。実のところ、俺は早いところ家に入り温かいブランデーを一杯やってさっさと眠りたいんだ。お前がここをパナマだかコスタリカだかと勘違いしていたって、そんなこと俺にとってはこれっぽっちも関係のないことなんだよ」
俺は階段を上って手すりに身を預けた。コートを着ていても伝わる、そこから立ち昇ってくる攻撃的な冷ややかさが冷厳の季節であることを明確に示している。
「坊やこそ、もう少しまともなことを言える努力をするべきなんじゃないかな」
確かにその通りだった。俺は思いを素直に表現することが致命的に下手だ。俺の中の正直な言葉は、クレヴァスの底の白い骨のように凍り付いたまま手の届かない場所で眠り続けている。
「名前、とにかく中に入るんだ。レーニンみたいになりたくなきゃの話だけどさ」
俺はポケットを探り鍵を取り出して扉を開けようとした。しかし何故だか鍵穴に上手く噛み合わず、不快な音を立て弾かれた鍵がコンクリートの上に転がった。彼女は鈍重な旅行鞄を蹴飛ばしてそのすぐ横に煙草を落とすといささか乱暴に足で踏み潰した。戸惑う俺の右腕に、剥き出された彼女の左手がそっと触れる。皮を剥ぎ取られたライチの実のように、ぞっとするくらいつるりとした腕だった。
「ねえアーサー、映画を見ようよ」
ドアノブをゆっくり回し、俺を見つめながら彼女は俺を扉の内側の世界へいざなった。
俺と名前はさびれた灰色の映画館の中にいた。椅子にはどう見繕っても二時間にわたって席についていられるだけの温かな柔らかさは残っていないように見受けられるし、通路の至るところは朽ちてひびが入っており、壁には血飛沫のようなしみが蔓延っている。そしてその設備の全てを、薄い膜のように灰色のほこりが均一に覆っている。世界に散らばる灰色の親戚全てを集めたような空間だ。しかしながらその不自然なほどの灰色に包まれた場所には、作りたてのゴーストハウスのような趣きがあった。時間が経過したことによるくたびれ方ではないのだ。そのわざとらしさは俺に不愉快とさえ言える居心地の悪さを感じさせた。
灰色の印象をより強くさせた原因は、この空間において圧倒的な存在であるスクリーンに映し出されていた映像が、白黒映画であったことだ。映画はまさに始まったばかりで、オープニングクレジットと共に音楽が流れている。俺は適当な席を選びほこりを気にせず腰掛けた。椅子の上を手で払う神経を使えるほど元気ではなかった。灰色と白と黒で構成された映像に流れる文字がフランス語であることに些末な嫌悪を覚えたが、それはすでに反射に近いもので、意味なんかまるでない。軽快だがどこかものかなしいテーマソングが俺の頭に入り込み、記憶の縁に片っ端から触れていった。どこかで見たことのある作品なのだ。しかし主人公と思われる少年が登場しても俺は思い出すことができなかった。
「『大人は判ってくれない』」
声は俺のすぐ近くから聞こえた。俺はその声の持つ言葉の意味を図りかね、顔をしかめる。
「タイトル。この映画のタイトルだよ。忘れちゃったの、アーサー」
隣には名前がいた。彼女の声には先程の対峙と打って変わって素直で求心的な響きがあり、俺の鼓膜を心地良くゆすった。
「思い出したよ。お前と一緒に見たな」
若くて貧乏で、そして幸福だった時代、俺と彼女はよく二人で映画を見た。俺は暗く狭い場所に閉じ込められて映画を見るくらいなら温かな日の差す窓辺で本を読んでいる方が好きだったのだが、じめじめした部屋で細やかな紙面上の文字を追うよりも大画面で迫力に浸かりながら物語に触れたいと考える彼女に引きずられる形で、わざわざ二人並んで映画館までの片道一時間を歩き通したのだ。破格で古い映画の再上映を行っているその映画館が、移動手段に乏しい俺たちにとってなんとか許せる範囲の距離にあったことは彼女にしてみれば喜ばしいことだったのかもしれないが、俺にとっては悲惨な事態だった。一時間の行程にはふたつの登り坂と16の信号が待ち受けていたからだ。おまけにこの映画館というものが廃墟のような代物で、上映する映画はわけのわからないものときている。俺は、やにと猫の小便のような臭いのする辛気臭いシートの上で度々浅い眠りに落ちた。
それでもやはり、俺は幸せだった。休日に叩き起こされてぼんやりとセーターを着込んだ俺の乱れた髪を整えてくれる手や、街を歩きながら時折寒そうに身をすくめて控えめに寄り添おうとする震えた肩、映画を見る真剣な横顔に収まったきらめく瞳、そういったものと共に在るだけで、俺はこの上なく幸福だったのだ。幸せはあたたかいものなのだと、はじめて理解することができた。俺は彼女を愛していた。
「嘘つき」
シートひとつぶんの距離を開けて俺の左に座る名前は、白いウエディングドレスを着ていた。ご丁寧にヴェールまでかぶっている。しかし後ろに撫でつけられた髪はほつれ、グローブに包まれた指先には黒い汚れが滲み込み、口の周りには口紅がこすれたような真っ赤な跡がある。まったくもってみすぼらしく、うらぶれた花嫁だった。すごく哀れだ。
「嘘つきだよ。本当は覚えてなんかいない。それくらい私にだってわかる」
「そんなことない。ちゃんと覚えてる。主人公の少年は狭い家の中で寝袋にくるまって両親の喧嘩を聞いているんだ。学校をさぼっていたら母親が浮気しているところを見ちまったりもする」
彼女は緩慢にこちらを向いた。正面から彼女の顔を見るとやはり唇の周りの赤い汚れが否応なしに目を引く。彼女自身の口紅ではないだろう。乱暴にこすり付けられたようなその赤の滲み方は俺に、怪物が真っ白な処女を犯してその血を啜り飲む場面を想起させた。何故だか急に耐え難い吐き気に襲われ、俺は口を押さえて上体を折った。けれど胃からは何も出てこなかった。俺にあるのは吐き気という感覚だけで、その実態はどこにも存在していなかった。
「あなたはとんでもない嘘つきだ、アーサー。どうしようもないほら吹きで、臆病で、泣き虫で、信じられないことに、暴力的。そんなあなたを、どうして私が愛さなくちゃならないの?」
名前が立ち上がり、座席の間の狭い空間を歩く高い音が響いた。彼女が話し終わっても映画の中で教師が主人公の少年を激しく罵倒する声が、彼女の代わりに俺を責めたてた。吐いてしまいたかった。吐けば楽になれるのに、と思った。
「いつだって肝心なときにあなたは自分と向き合おうとしない。そのせいで、いろんな大切なものがあなたの中から抜け落ちてしまった」
今度は少年の母親が彼を罵った。俺はほんの少しだけ、胃液を戻した。
「でも、あなたはそれを取り戻すことだってできた。きちんと組み立てて、磨き上げることができたんだよ。あなたが気付いてさえくれれば、私は本当の意味であなたを信じることができたのに」
口を拭って顔を上げると、そこに名前の姿はなかった。あとに残されたのは収まる気配のない吐き気と、シートに染み付いた煙草と小便のように下劣な臭いだけだった。それらは執拗に俺の周りに纏わりついたので、俺は吐き気に加えて頭痛と、直截的な身体の痛みも背負うことになった。理不尽な暴力にも似たその苦痛を追い出すことは今の俺には到底不可能なことだ。瞳から涙が落ちる。閉まりのゆるい蛇口のように溢れてきて、自分の意志ではもうどうにもならなかった。手のひらに湖のように溜まったそれは日を受けて輝く春の森のような色をしていたので、俺の瞳はついに緑を失い始めたのだろう。
春の涙を流しながら灰緑色の瞳でスクリーンを見上げる。そこでは名前が少年の代わりに色の映らない世界を走っていた。彼女の走り方は実直で無駄がなく、背景の林はどんどん流れていく。彼女はただひたすらに真っ直ぐ走り続ける。ドレスの裾をたくし上げヒールを脱ぎ捨てて、息を切らせて懸命にどこかへ向かっている。あるいは、逃げている。ヴェールが頭から滑り落ちる。彼女の細い裸の肩が休むことなく上下に動いている。俺は立ち上がることさえできずに、その姿を見つめながら瞳の色をなくしていった。
やがて彼女は走ることをやめ、ゆっくりと歩みはじめる。行き着いた場所は海だった。灰色の世界における海は何故か俺の知るどんな海よりも寛大で、鷹揚にさざ波の音を鳴らしていた。彼女はそのやすらかな場所に素足を滑り込ませ、この世界では一番鮮やかな色である白いドレスの裾をたゆたわせる。背中を向けたまま彼女はしばらくの間じっとそこに佇んでいた。灰の海の抱擁に心から感謝するように。その背と同じものを俺はどこかで見たことがあるはずだったが、やはり思い出せなかった。俺は火薬と泥と腐った蛇を詰め込まれるにも似た苦悶の中にいて、狂ったように涙を流し続けていた。
名前が振り返る。彼女は俺と違ってすべての色を失っていた。彼女が色を持つことはもう二度とない。唇の周りの赤だけが、生々しい血の色をしている。
「ねえ、どうしてあのとき引きとめてくれなかったの?」
純白の彼女を穢した怪物は、間違いなく俺だった。
O, my offence is rank, it smells to heaven.
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