「イヴが誕生日なんだって?」
彼は鼻歌を歌いつつ手元の新聞に目を通し、目線はそのままで私にそう問いかけ、そして更にコーヒーを口に含んだ。どこか子供っぽさがあるので普段は到底器用そうには見えないけれど、そこまでのことを同時にやる彼はなかなかどうしてスマートである。向かいの椅子に座ってトーストを囓った私はそんな彼に少し嫌気が差した。いくらなんでも完璧過ぎる。彼の焼いたトーストにすら、文句のつけようはなかった。
「誰から聞いたんです」
「癪なことに、イギリスから」
私はイギリスさんに教えた覚えが無いから、きっと日本さん経由だろう。彼の使いっ走りのような存在である私の個人情報などあってないようなものだ。“国”の下で働くということは、そういうことなのだ。
「贈り物をしろとうるさい」
急に鼻で歌うのを止めた彼は咳払いをし、新聞をたたんだ。
「そこで率直に聞くけど、何か欲しいものあるかい?」彼は私を見つめた。
「それを私に聞きます?面白味のない方ですね」私は彼と視線を交わらせずに、俯いたまま手に付いたパンの欠片を拭き取った。
「どうも苦手なんだ、プライベートの贈り物って。がらくた貰ったって嬉しかないだろ?」彼は頬杖をつく。
「気持ちが重要なんですよ」
間延びしたような声を出したあと、彼は少し顔を傾けた。
「君の口からそんな言葉が出るなんて」
「もちろん、あなたに“気持ち”なんてものが存在していればの話ですけど」
「少しイギリスのところに居すぎたな。女が皮肉なんて覚えるもんじゃない」
大きく頷きながら彼は立ち上がる。テーブルに両手を付き、ブロンドの前髪を顔に垂らしたその姿は何となく不気味だった。しかしすぐさま顔を上げた彼の眼鏡の奥の青い瞳が輝いているのを見て、それが杞憂であることに安心する。
「まあ任せて。最高のバースデイにしてあげる」
とりあえず私は肩をすくめてみせた。
イヴのニューヨークは流石に素晴らしかった。私たちはリンカーン・センターに赴き、しばしジュリアード音楽院の生徒になったつもりでヴァイオリンを弾く真似をして他愛ない時間を過ごしたあと、ニューヨーク・シティ・バレエの『くるみ割り人形』を鑑賞した。本来であればスウィート・シートで見ることは叶わないはずだったのだがそこはアルフレッド王子といったところ、私たちは特別にその席でバレエを鑑賞することができたのだった。まるでクララだね、名前とアメリカさんは悪戯っぽく笑った。
そのあとに訪れた気の利いたフレンチレストランで、約束通り彼は私に“贈り物”をした。それはティファニーブルーに覆われた長方形の箱で、シルクのリボンが巻いてある。中身はいかにも高級そうなネックレスだった。どう見ても既成のデザインではない。すぐ近くにある本店にオーダーし、作らせたことは明らかだ。けれど彼は何も言わずに薄い微笑みを浮かべて丁寧に魚をナイフで切り分けていた。私は少し気恥ずかしさの残るまま礼を言った。
藍色にどっぷりと浸った空は街を一層季節めいた色に変える。あらゆる場所が様々な色のネオンに輝き、まるでよくできたジオラマの中にいる気分にすらなった。どこか現実離れしているのだ。私たちはレストランを出たあと、しばらくニューヨークの街を歩いていた。最高の散歩日和、というわけでもなかったけれど、私は幸福な気持ちに包まれていた。浮かれていると言っても言い過ぎではなかった。
「なんだか、ホールデン・コールフィールドみたいですね」私は彼の腕を取りながら言った。
「悲壮感でいっぱいってわけ?」彼が私を見て悪戯っぽく笑う。
「いいえ。私たちはこれからフィービーに会いに行くんです」
「なるほど。それならハッピーだ」
彼は私の額に唇をつけて、ゆっくり離した。そして、「少し付き合って欲しいところがある」と言った。正直なところ、その時の私は彼の言うことならなんでも聞き入れてしまうくらい浮き足立っていたのだ。私の肩を抱いた彼の長い足はやや速足で進んでいく。ハイヒールの音を少し大きく鳴らせながらついていくと、彼は一軒のトイ・ストアの前で足を止めた。ボルドーの煉瓦でできた古い造りの店構えはなんともこの聖夜にふさわしい。雪がちらつく中多くの大人たちが店に出入りしている。子供たちへのクリスマスプレゼントを買うためだろう。私は訝しみながらも、彼がにっこりと微笑みながらこちらを見たので何も言わず、手を引かれるままに中へ入っていった。
重厚な色合いの赤い壁に垂れ下ったカラフルな照明に囲まれるようにして、店の中央には大きなクリスマスツリーが尊大にそびえ立っている。棚には、あらゆる子供たちの要求に応えることのあまり望めなさそうな、いくぶん古めかしい種類の玩具であふれ返っていた。テディベアや戦闘機の模型といった類のものだ。それでも店は繁盛していた。大人たちは真剣な顔でぬいぐるみの耳を検分し、リボンの色に注文をつけ、包装する箱の大きさを店員と検討し合っていた。
彼は穏やかな顔でのんびりと店の中を歩いた。そしておもむろに、近くにあった年季の入った人形を手に取る。うずたかい黒の帽子と真っ赤な制服を着たその兵隊は、イギリスの近衛兵を模しているように見受けられる。お世辞にも職人ものとは言えないその兵隊は、確かにいびつではあったけれどその分どこか愛くるしさを持っていた。彼はそれを握る親指の腹で帽子のあたりを撫でながら言った。
「子供が欲しいと思ったことはある?」
その声は感情を込めまいと、自己を抑制する本人の意思が明らかに透けてしまっている。私はバッグの持ち手を握り直し、しばらくその場に黙って立っていたけれど、彼は言葉の続きを発しなかった。私も、何か言いたいとは思わなかった。
彼に背を向け、手の届くところにあったテディベアを持ち上げる。スカイブルーのリボンを首に施された、茶色の熊だった。何とは無しにリボンをめくると、そこには“愛しのアルフレッドへ”とある。
「ねえ、アメリカさん。これって」
振り返るとそこには誰もいなかった。消えてしまったのはアメリカさんだけではなく、たった今まで店内にいた大勢の客までもがいなくなってしまったのだ。ある種の異様な静けさの中で響く音といえば、レールの上を走る旧式の機関車の玩具が立てるかたかたといういびつな音だけだ。私はテディベアを置くとテーブルに両手をつき大きく深呼吸をした。しかしもちろん状況は変わらなかった。変わる予感すらなかった。
どうしたものかと目を瞑り、考え込むときの普段の癖でピアスを左手でいじっていると、突然後ろに人の気配がした。
「考え事?」
そこには男がいた。『華麗なるギャツビー』にでも出てきそうなくらいクラシカルなスーツをきっちりと着て、テーブルの上に座って足を組んでいる。
「あなた一体誰です」
思わずそんな言葉が口から出た。外見や声、仕草までもが“アメリカさんそのもの”であるのに、目の前の男は黒い髪をしている。混じり気のない、純粋な黒だった。そのくせ瞳だけは変わらず青い。“この男はアメリカさんとは違うものだ”と私は感じた。
「残念だけど俺はアメリカだよ。ジェイ・ギャツビーでもなくね、オールド・スポート」
私の心を読んだような、絶妙のタイミングで男は言う。どうすべきか考えあぐねつつ、口を開こうとしたときだった。
「ああ、いいよ。君の考えていることはわかってるんだ。何せここは俺の世界だからね。君が話す必要はない。まあ、話したいというのなら別だけど」男は手の平を上へ向けた。
「これが“とびきりのバースデイ”の秘密?」
「そう!驚いてくれた?どうだい、黒髪の俺もなかなか……」男は自身の前髪をつまむ。
「アルフレッド、サプライズにしては余程チープよ」私は腕を組んだ。
「まだ俺がアメリカでないと思っているんだね。いいさ、つまり君はもっと他の目的があると言いたいわけ?」
“そうよ”
「ふむ、やはり君は聡いな。日本の使いなだけある」
“話をそらさないでください”
「そうだねえ、じゃあ率直に言うけど」
男は組んでいた足を解き、一度うつむいた後時間をかけて顔を上げた。その表情は何かを決心したように見受けられる。
「俺は君のことをこの上なく愛しているんだよ、名前」
男は微笑んだ。目許にかすかに皺が寄っていてせつなげで、まるで古い映画の中の女優のような表情だった。
「おっしゃっている意味がわかりません」
「俺の顔はイングリッド・バーグマンに似てた?」
「話をそらさないでと言っているでしょう」
「そらしてなんかいない。むしろ事の中心をこれ以上ないくらいシンプルに言ったんだ」
「事の中心?」私にはますますわけがわからなかった。
「ねえ、君はわかっていないんだ。俺がどれだけ君を愛していて、大切に思っているのか」
男の手にはいつの間にか水色のリボンの巻かれた先程のテディベアがあった。男は指先で押したり引っ張ったりしてその耳をもてあそんでいる。ふと、どこからか音楽が流れてくるのがわかった。ショスタコーヴィチの『ジャズ組曲』である。どこかで見た映画のテーマソングだったような気がしたが、それがどういう内容だったかは忘れてしまった。ここでは記憶というものをうまく使うことができないようだ。
男を見やると、その周りにはたくさんの玩具が積み上げられていた。どれもが古めかしくて、痛んでいる。
「くだらないだろ。全部、イギリスからの贈り物さ。早く捨ててしまえばいいのにって自分でも思うよ。でもできないんだ。俺はそういうふうにしか生きられない」
男は玩具の上にテディベアをそっと乗せると私をじっと見据えた。深い沼のように重みのある視線だった。
「俺は君を失いたくない。そのためならどんなことでもする。いいかい、俺は“名前を絶対に逃がさない”と言ったんだよ。その意味はわかるね?」
身体は動きそうもなかったが、指先に力を込めていくと徐々に全身の緊張もほぐれてきた。私は男に背を向け、店の扉に手を掛けた。真鍮製の取っ手はひやりとつめたく、私を歓迎しているようには全く思えない。
「その扉を開けてしまえば、君は二度と今までの世界には帰れない。でもここに来て俺の手を取り、ずっとそばにいると約束してくれるなら、俺は君を守ってあげる」
ゆっくりと男が手を差し出す。私はその手の平を見つめる。そこに刻まれた皺は髪や頬を撫で、私を慈しんできた存在であるはずだった。けれど今は、水脈のように走るそれが憎くて憎くてたまらなかった。
「さよならアメリカさん」
私は扉を開ける。その時、耳元に男の囁きがきこえてきた。
「俺たち“国”が哀れなんじゃない。国に愛された人間こそが、本当は可哀想なのさ」
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