「最近歯が抜ける夢をよく見る」

 コーヒーをテーブルの上に置き、いかにもレトロな少し堅めのソファに身を預けた私は言った。店内では豆の香ばしい匂いと多くはない客が話し合う声、優雅なクラシック音楽が見事に調和を為していた。
 本田はその音に合わせるかのようにわざわざソーサーも一緒に持ち上げ、貴族のような飲み方をした。そのせいで貴族屋敷のような雰囲気になった店の中では、不釣り合いだと言わんばかりに私の発った言葉は宙に取り残され、やがて消えてしまった。

「気が触れたみたいにごろごろ抜け落ちるんだ。痛みはないんだけどね」

 気を取り直してもう一度会話を始めた私は彼の返事を待った。彼は目を伏せ点検するようにコーヒーを飲んでいるところだった。

「そりゃああなた、何か悪さでも働いたんでしょう」丁寧にカップとソーサーを置いた彼が言った。
「何でそんなことがわかるの?」
「歯が抜ける夢というのは、当人が罪悪感を抱いているために見られるそうです」
「へえ。罪悪感」私はここ数日の自分の行動を振り返ってみた。
「あとは、金欠や周囲の人間の死の予兆とかですね」
「夢占いで鑑定料とれるよ」
「それもいいかもしれませんね。さあ、やりますよ」

 そう言った彼は鞄からノートやら筆箱やらを取り出した。私は彼をじとりと見つめ、コーヒーを一口啜った。ついでに一緒に注文したケーキを食べようとフォークを取る。

「もうちょっとゆっくりしようよ」
「何言ってるんですか。あなたが私に泣き言を言ったからわざわざ付き合ってやってるってのに」彼は神経質にペンを回した。
「うん、そうだった。私はいい友人を持ったな」

 乾燥気味のたいして美味しくもないケーキを咀嚼し飲み込むと、本田がペーパーナプキンを差し出した。

「ついてる」

 彼は面白いくらいに無表情だった。



 その日も夢を見た。ここ最近よく見る例の夢だったが、いつもとは少し違っていた。
 壁一面真っ白で窓も扉もない無機質な空間にこれまた白いワンピースを着た私が素足で立っている。そして何の脈絡もなく線が切れたように歯が抜け落ちていく。最初は奥歯から。次に犬歯、最後は前歯、といった具合に。
 ここまでは普段と一緒だった。しかしその日はそれと同時に、大量の血膿が口の中から溢れ出したのだ。私はそれに怯え、とっさに口を押さえるのだが血は止まる気配を見せない。柔らかな白のワンピースが気味の悪い赤褐色に染まっていく。
 ふと顔を上げると何もなかったはずの壁のある一面に扉が現れた。機械的な雰囲気のこの場に似つかわしくない木造のドアだった。ノブがゆっくりと回転したかと思うと、その陰から黒い革靴を履いた黒い脚が伸びた。ドアを後ろ手に閉めたその脚の持ち主は男で、学生服を着ており、学帽らしきものの角度を気にするように鍔に手をやると時間をかけて微笑んだ顔になった。
 彼は本田菊と同じ外見をしていた。

「本田」私は思わず呟く。
「本田?誰ですそれは」彼は柔和な笑みをわずかに崩す。
「あなたは本田菊でしょう」
「違いますよ。おかしな人ですね。私は××じゃないですか」
「××」聞いたことのない名前だ。私は首をかしげる。
「ええ。──さん」

 それも誰なんだ、と尋ねようとすると本田菊と同じ顔をした男が水面を滑るように歩み寄ってきた。私は身構えないわけにはいかない。だって、彼はどう見ても本田なのだ。見た目はもちろん声の抑揚、言葉の選び方、ちょっとした呼吸の間や神経質そうな指の動き、その全てが彼とそっくりだった。きっと何か企んでいる。私をからかっているのかもしれない。
 後ずさろうとしたところで私はあることに気が付いた。今だ止まる気配のない血はすでに白いワンピースの大方を赤く染めているのだが、その赤く色付いた部分がうごめいている。すると声を上げる間もなくそれが無数の蝶のようなものに離散し、そしてすぐに私の身体を覆い直した。

「ああ、いつもの──さんですね」

 私は綺麗な深緋色の着物を着ていた。所々に蝶の模様があしらってある。変わったのはどうやらそれだけではないらしく、目線は幾分か下がり、随分と長く伸びた髪が胸元に垂れていた。
 一体これは何だ、と言おうとしたものの口がその言葉を象っただけで音は出なかった。血で覆い隠された手で喉を掴む。

「いけません、汚れてしまいますよ」

 本田と同じ顔をした男が私の手首を押さえた。常に存在する彼の微笑みがその種類を変えていることに気付く。心の奥底に何を秘めているか判断のつかない、全く質の悪いタイプの笑みだ。悪寒を感じた私は咄嗟にその手を払いのけた。

「拒むのか」

 彼は途端に憎悪に満ちた顔付きになり、私の首を握り潰すように勢いよく掴んだ。化け物じみたその力に恐怖した私は彼の頬を思い切り叩いてしまう。その拍子に学帽が音を立てずに床に落ちた。
 横を向いた彼が目線のみを動かし、射殺さんばかりの眼光を湛え私を見る。そして首を掴む手の親指を私の口の中へ突っ込んだ。人間離れしたその力で、私の残った歯のひとつの根元を爪を立てながら奥へと押しやる。

「あなたはそうやっていつも私を絶望させる」

 歯が折れた。



 その不気味な夢を見て以来私は本田のことを避けるようになった。無論夢は夢でしかないし、だいたいあちらは違う名前を名乗っているので、本田とは一切関係の無いことではある。
 しかし私にはどうしてもあの夢が“ただの夢”であるとは思えなかった。現実離れした空間や痛覚の不在は明らかにそれが夢想であることを示しているのに、それとは逆に本田と同じ顔をした男はいやに立体的で明確で、それでいてどこかしら不完全なところがあった。まるで現実の本物の人間、そう、まさに私のよく知る“本田菊”のように。
 加えて私を追い詰めたのは、眠ると決まってその夢を見るということだった。まず歯が自然と抜け落ち血が溢れ、扉が現れる。そこから登場した本田そっくりの男は××と名乗り私の風貌が変化する。彼が激昂する。そして私の歯が折られる。内容は最初に見たものと寸分違わない。
 最終的に私は不眠症に陥った。


「ねえ名前さん。顔色がひどく悪いですけど、大丈夫ですか?」

 心臓が一瞬ひやりと高鳴ったのち頭を上げるとそこには本田が居た。神妙な面持ちで私のことを見つめている。彼と一緒のこの授業だけは、受講者たちが互いをほとんど認識しているほど人数が少ないため、対面は必然だろうと考えてはいた。しかし慢性的な睡眠不足がことごとく注意力を奪っていたので、話し掛けられるまで彼の接近に気付かなかったのだ。久しぶりに見た彼の深い黒色の双眼はそれまでと変わりのない、穏やかな色を浮かべている。
 不規則な鼓動を悟られぬような調子で返事をした。

「ああ、うん。大丈夫」彼から目を逸らす。
「本当に?ひどい隈だ」彼は私の顔を覗き込む。
「そう?」
「体のいい死人みたいになっちまってますよ。あんた、ちゃんと眠れてないでしょう」

 私は身を強張らせた。彼は私の目の下の皮膚にそっと手を這わせる。その手つきは、夢の中の例の男と驚くほど似ていた。

「悪い夢でも見ましたか?」

 見上げるとそこには、夢と全く同じ、不可解で身の毛立つ悪魔のような顔で微笑んでいる彼がいた。彼は隈をなぞる手を瞼の上にずらす。

 視界が暗転した。



 海が見える。波が岩に当たり、飛沫をあげながら砕ける音がする。頭上を二羽のかもめが声を立てずに静かに通り過ぎていく。温かな潮風に髪が揺れる。目にかかったそれを横に撫で付けたときに、自分が古い映画に出てくるような女学生の格好をしていることに気が付く。海老茶の行灯袴に桜色の小袖を着てブーツを履いている。
 そこは波止場であるらしかった。しかし自信はない。古い木の橋がひとつ突き出しているだけで船の姿は見当たらないし、それにこんなところへわざわざ船まで使って来る必要があるのか、というくらい辺鄙な場所だったからだ。孤島であるその島は一面を青々しい木に覆われ、私の立つこぢんまりとした船着き場から山の頂上に向けて青い鳥居が幾重にも連なっている。それはちょうど京都の伏見にある有名な神社とそっくりだった。鮮やかな色が朱でなく藍だというところだけが違う。頂上付近にはおそらく社があるのだろう。
 私は心地好い波の音と潮風に身を任せ、しばらくそこに立っていた。時折木の葉の揺れる音が聞こえる。空は快晴で、それら自然がまるで私を祝福しているかのように感じられた。
 鳥居の方から足音が聞こえてくる。それは石畳を丁寧に踏み締めてゆっくりと降りてくるようである。振り返ってその足音の持ち主を確かめることにした。貴族が階段を降りるような勿体振った礼儀正しい音が近付いてくる。
 足音の所有者は、白地に金の刺繍の入った軍服の上に同じような仕立ての外套を羽織っていた。頭の上には身体の一部であるかのように理想的な角度で軍帽が鎮座している。
 上品な白練の外套を風にはためかせながらその男は白手袋をした右手を差し出した。

「あなたは本田菊だね」私は彼に手を預けた。
「ええ、そうです」

 彼は微笑むと、踵を返し今し方通ってきたであろう石畳の道を上り始めた。つられる形で私もその後に続く。
 青の鳥居の隙間から差し込む昼下がりの柔らかな光が所々苔の生えた石畳を照らしていた。鳥居の合間には上からかかる緑の葉が彩りを添える。その美しい神聖な空間を黙って進む白の背は、普段と違い不思議と逞しく、そして誇らしげに見えた。

「ねえ、本田」先行する彼の背中に話しかける。
「はい」彼は振り返らない。
「どうしてあんな夢を見せるの」
「あんな夢?」
「知らないはずがない。あの夢はあなたが見せてるんでしょう。私、わかっているんだよ」私は俯いた。
「何か勘違いなされてるようで」彼はやはり振り返らない。
「まともに眠れてない。頭が変になりそう。お願いだから、もうやめてほしい」

 彼が歩みを止める。私は顔を上げ静止した彼の背中から何らかの意志を汲み取ろうとしたが、そこにはただ無言があるだけだった。否定でもなければ肯定でもない。島を旋回するかもめが、警告するように短く鳴いた。
 黒髪をわずかに靡かせ振り返った彼の瞳は憎しみに曇っていた。今にも呪詛を吐かんとする口をなんとか押さえ付けてはいるが、顔の筋肉は強張り目元には皺が寄っている。その憎悪に呼応するかのように辺りが突然暗くなり、瞬く間に森が消え、切り立った崖となった。眼下には暗く真っ黒な海が私たちを飲み込もうとするかのようにうねっているのが見える。美しい明るさに満ちていた石の道や鮮やかな鳥居が端から崩れ、そのうねりの中に飲まれていった。
 その状況にも拘わらず、見ると彼は笑っていた。

「何で笑う」私は愕然とした。
「だって可笑しくて。あなたがまるで、全て私のせいだというような物言いをなさるから」

 彼は勢い良く私に向き直り、強大な力でもって私の首を両手で絞めた。例の悪夢のように。

「お前のせいではないか。全て、お前の」

 彼は今や目を見開き、内に溜まったその憎しみの一切合切を私にぶつけようとしていた。

「お前が私を忘れるからだ!」ほとんど気違いのように彼は叫喚した。
「忘れる……」
「そうだ、お前はいつもそうやって私を追いやる。私だけが死よりも辛い責め苦を味わう。私を忘れて、お前だけが幸福を受け取る」
「何を言っているの」
「ねえ、もう終わりにしましょう。もう苦しみたかないんです、私」

 苦しげな表情を浮かべた彼は私の気管を圧迫する力を一層強めた。崩壊の音はすぐそこに迫っている。鳥居が成す術なく暗黒の海に飲まれていく。その音と酸素の不足が私の頭を霞ませる。
 気付けば彼に口付けられていた。そこに愛を求める意味はない。顔を離した彼の口周りには新鮮そうな赤い血がべったりとついていた。それは間違いなく私の血だ。彼は何をしたのだろう?ぼんやりした頭ではその先を考えることができない。
 彼は恍惚に頬を蒸気させ、徐に舌を出した。そこには真っ赤な血で覆われた小さな歯が載っていた。

「これは後生ずっと、大事にいたしますからね」

 舌先から恭しくその歯を摘み取り軍服の胸ポケットに仕舞い入れた彼は口の回りに付着した血を美味そうに舐めとった。その常軌を逸した一連の行動に後退ろうとした時、すぐ後ろの足場が既に海に沈んでいることがわかった。海のうねりはまるで地獄の亡者達の歎きのように聞こえる。
 本田は首にかけていた手をゆっくり離し、私の肩をとんと小突いた。

「さようなら、名前さん」



 日の光で目が覚めた。そろそろと視線ずらすと、ほんの少し日に焼けたカーテンと生けられたばかりのみずみずしい花が目に入った。カーテンから漏れる強烈な夕日は、時刻が昼から夜へ変わろうとしていることを示している。指先を動かそうとしたときに、すぐ側の存在に気付いた。

「名前さん……」

 それは本田だった。彼は大学で着ているようなシンプルな装いでベッドの横の椅子に前のめりに座っていた。濃い隈と幾分やつれた顔付きから、きちんと睡眠をとっていないことが窺える。
 本田、と呼びかけようとすると彼は勢いよく私のことを抱きしめた。

「ああ、ああ、よかった。あなたって人は。私の目の前でいきなり倒れて……医者は、目は覚めないかもしれないなんて言うし。あなたって人は本当に。どれだけ心配かけさせりゃ気がすむんですか。私がどんなに張り裂けそうだったか」

 一気にまくし立てた彼は、間を空けずにさめざめと女のように泣いた。その身体は寒さに凍える可哀相な子供のように細かく震え続けていた。
 その姿を見て、私は彼を疑い、拒絶した自分を猛烈に恥じた。やはりあれはただの悪い夢だったのだ。あの悪夢を引き起こしたのが本田だと考えるなんて、どうかしている。現に本田はこうまでして私のことを心配してくれているではないか。なんと得難い友人だろう。
 腕がまだ上手く動かないので顔だけをなんとか彼の方へ向ける。

「本田、ごめんね、ごめんね」
「ええ。でも、よかったです」
「ありがとう」
「いいんですよ。好きであなたの世話を焼いているんですから」

 その言葉に少し顔が赤くなる。彼はゆっくり身を起こすと、微笑んだ。その時、彼の胸元に御守りが下げられていることに気が付く。臙脂色の布でできたそれは始めからそこにあったかのように彼に馴染んでいた。だが彼がそんな御守りを身に付けていたのは一度として見たことがない。
 じっとそれを見詰めていたことに気付いたらしい彼が臙脂色のそれを両手で持ち上げる。

「これが気になるんで?」
「そんなのしてたっけ」
「ご存知でない?」
「うん。知らない」

 日の角度が変わった。そのせいで彼の顔に陰が差し、表情を上手く読み取ることができなくなる。西日に照らされた病室内がいきなりよそよそしくなったような気がした。花の香りがする。しかしどういった種類の香りなのかはわからない。それは甘く優しいのだろうか?はたまた鼻を突くようなきついものなのだろうか?
 彼はおもむろに私の上に乗り掛かり、顔を近付けて言った。彼は、本田菊とは、どんな顔の男だっただろう?

「これはねえ、私の宝物なんですよ」

 耳元でそう囁かれた瞬間、悪寒が全身を駆け巡った。この感覚はどこかで味わったことがある。抜け落ちる歯、止まらない血、黒い学生服、無惨に折られた残りの歯──海、波止場、連なる青い鳥居、差し出された右手、白い軍服、島の崩壊、霞む頭──そして。
 身体は動かなかった。眼球ひとつ、指ひとつ動かせない。もう、呼吸をしているのかどうかも、わからない。

「ね、名前さん。わかってます?あなたもう死んでんですよ」

 鼓動が失われたことを愛おしむように、彼は私の胸の間でそっと手を往復させた。適切な位置を見定めたかのように静かに左手を置くと、その上に右手を重ねる。そして仕上げに右手の上にそっと頬を添えた。その顔はこの上ない幸福に満ちている。
 “彼が至福の中でとても穏やかに微笑んでいる”。それが今の私に理解できることの全てだった。

「ようやく一緒になれますね」
120319


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