そこはホテルだった。現代的でシステマティックなものではなく、どこか懐かしさを感じさせるような造りで、例えるなら1920年代のアメリカのホテルといったような感じだ。
俺は人気の無いロビーに佇んでいた。この世界のどこにももう人はいないのだとでも言いたげなくらい、辺りには冷たい沈黙が充満していた。どこに行けばいいかは何とは無しにわかっていた。「貴方は“その部屋”に行けばいいのだ」と頭の中で誰かが言っている。聞いたことの無い女の声だった。しかしその声は何故か、俺に血の付着した百合の花を連想させた。
“その部屋”の前に着いた俺は真鍮のドアノブを掴み、右に回しながらドアを押した。ドアに鍵はかかっていなかった。きちんとドアを元の位置に戻し、俺は部屋を観察した。そこは異様と言っていいくらい、先程俺が歩いてきた1920年代のアメリカ的ホテルの枠を逸脱していた。壁は鮮やかな黄緑で、床にはワイン色を基調としたハニカム模様のカーペットが敷かれている。どちらもたった今張られ、敷かれたかのように染みひとつなかった。俺は扉を開けて時代を跨いだ気にさえなった。
女は俺の真正面のベッドに腰掛けていた。木造のオリエンタル風なベッドの背が接する壁には、ダリだかデ・キリコだか(俺は絵画に明るくない)の絵が飾られている。腕を後ろについて脚を広げたままの彼女の格好はあまり行儀がいいとは言えなかったが、何もかもが出鱈目なその空間においては妙にマッチしていた。
「やあやあ、よく来たね」
女は右手を挙げ、綺麗に人好きのする笑みを浮かべた。その右手から徐々に色が付くように女の身体の全容が明らかになっていった。(何故俺は今までわからなかったのだろう?)
彼女は皴ひとつない日本と同じ白の軍服をきっちり着込み、狂暴なくらいに眩しい白さの手袋をしていた。頭の上の軍帽だけがいささかぐったりしているように見えた。
「そこにいては詰まらないだろう。こっちへおいで。お茶を淹れてあげるから」
「いえ、結構です」
「そうか。なら仕方がないな」
女は目を細めさせ、耳の横までしかない髪を摘んで少しの間弄んだ。
「あなたは誰なんです」
「察しはつくの?」
「大体。あなたは俺の友人にとてもよく似ています。日本人ですね?」
「さてどうだろう」
ところで、と女は言った。
「その服、かっこいいね」
彼女は髪を弄ぶのを止め、指を張ってぴんと俺を指した。そこで俺は自分も軍服を着ていることに気がついた。少し前に着ることをやめたはずの緑のそれは懐かしむように俺の身体を包んでいた。頭の上にはご丁寧に軍帽まで乗っている。
「おかしいですね。着るのをやめたはずなのですが」俺は首元の鉄十字を僅かに持ち上げた。
「とてもよく似合っているよ」
「ありがとう」彼女に褒められると少し誇らしい気持ちになれた。
ところで、と女がまた言った。
「君のお兄さんに会ったのだけどね」
「兄に?」
「うん。お兄さんはとても疲弊していたよ」
「そうか」
「今にも死にそうなくらい、疲れていた。長くはないかもしれないね」
「兄にもう媒体は無いからな」
「そのことなんだけどね、ええと」
「ドイツです。俺の名前はドイツ連邦共和国」
「そう、ドイツ君。君はお兄さんが好き?」
女は膝の上に肘を付くと顔の前で手を交差させた。そしてその真っ白な手の甲の上に、ほっそりとした顎を乗せた。一連の動作は優雅と言っていいくらい洗練されていた。
「もちろんだ。俺は兄を世界で一番尊敬しているし、信頼している。立派な男だ」
「ねえドイツ君。私は“お兄さんが好きか”と聞いたんだよ。師匠を尊敬するとか信頼するとかは誰だってできるだろう。私は、君が“兄弟として兄のことを好きかどうか”を聞いているんだ」
「師匠?」
その問いに女は答えなかった。軍帽の廂から覗く彼女の二つの黒い瞳は急に生臭みを帯び始める。
「私ははっきりしないのは好かない。君は馬鹿ではないはずだ。私が何故こんなことを聞くかくらい解るだろ」
僅かに苛立ちを含んだその言葉に俺が瞬きを一つした次の瞬間、女は右手に日本刀を握っていた。それはいかにも切れ味のよさそうな刀だった。女は腰掛けたベッドからすっと立ち上がり、廂の下から俺を見据えた。
「なんだ、それは」
「見て分かるだろう。人を殺すための武器だ」
「あなたは俺を殺すのか」
「師匠は君を殺し損ねたようだからね。代わって私が彼の悲願を達成してやろうというわけだ」
「兄さんが俺を殺し損ねた」
それは口にしてみると不思議なくらい違和感が無くなった。部屋の片隅に置いてあるレコーダーが動き出し、偉大なるベートーヴェンの交響曲第9番第4楽章が流れはじめた。
「師匠は君を憎んでいた。勿論表層的な面では君を愛していたけれど、心の一番深いところには常に君に対する激しい憎悪があったのだ。彼はそれを抱えたまま朽ち果てようとしている。けれどそれでは駄目だ。それでは、私のようになってしまう」
「兄は俺を怨んでいるのか」
俺は女に気付かれないようゆっくりと後ろに手を回した。
「ああ。自分の全てを吸い取り、それでも平然と次を要求する君を、彼は心底でずっと憎み続けていたはずだ。要するに」
プロイセンは君が嫌いだったんだよ、と女が言い終わるのと同時に俺はホルスターから拳銃を抜き取り、素早く引き金を引いた。何百回と行ってきたその動作には、我ながら全く無駄な部分が無い。
女は撃たれた瞬間も声をあげることなくただ静かに後ろに倒れた。ベッドには彼女の血が扇状に割と派手な模様を描いていたが、レコーダーは顔色ひとつ変えずに音楽を流し続けていた。俺は部屋をもう一度見回したが、その奇妙な空間は相変わらず奇妙なままだった。
拳銃を元の位置に戻すと俺は女に近寄った。頭を撃ち抜いたので顔は血まみれだったが、美しい顔立ちであることが窺える。幼いと言っていいその顔は、造りはあまり似ていないのだが纏う雰囲気が日本とよく似ていた。
せめて目を伏せてやろうと手を伸ばしたとき、左胸に鋭い痛みを感じた。
「死んだと思ったのだが?銃には自信があるのでな」口の端から血が流れた。
「大層な自信家だ。そして、傲慢だ」
左胸にはやはり日本刀が刺さっていた。彼女もこういう動作を何百回と行ってきたのだろう。無駄というものが全く無い。実際にこうして心臓に刀が突き刺さるまで、俺はほんの少しの気配も察知することができなかったのだ。
「お前は一体何者なんだ。何故死なない」
「語弊だよ。私はずっと死んでいるんだ」
耳にした最後の言葉は“歓喜の歌”だった。
120110