バスルームの無機質な白い壁を背景にして、彼はバスタブからふたつの長い足をこちらに投げ出していた。彼の上半身はバスタブの中にうずまっているため、その姿は前衛的な絵画のようだった。一切のあたたかみが存在しないモノクロ基調のバスルームの中で、彼の褐色の足が木の根のように、つるりとしたバスタブからはみ出している。それはちょうど、世話をされず、放置されて伸びすぎた植物のようにも見えた。
アフリカの国境みたいに真っ直ぐに分割された壁の白いタイルに、新鮮な赤い血が飛び散っている。額かどこかをぶつけたのだろう。それは、シャワーカーテンがレースから千切れるように剥がされていることからも明白だった。酩酊しているか、あるいはそれよりもたちの悪いもので、彼が肉体と精神のコントロールを失っていることは容易に想像できた。
話しかけたくなかった。
「キバナくん」
それでも一応は、放置しておける状態ではなさそうなので申し訳程度に声をかける。3回声をかけても反応がなかったら、用事を済ませて去ろうと思っていた。反応してくれなければいいのに、と私は思った。
「名前さん?」
キバナくんはきっかり1度目の呼びかけで意識を取り戻した。私は落胆した──いや、本当のところを言うと、怖かった。
「飲みすぎると逆に毒だよ」
バスルームに併設されている広いドレッサーの鏡の裏の棚から、おもちゃのような色をしたボトルや錠剤がこぼれ落ちている様子はいやでも視界に入ってくる。私が来るまでにどれほど中身を消費したのだろうと考えて、目を強く瞑った。考えたくなかった。
ぴちゃ、という水音がして、見ればキバナくんが身を起こそうとしていた。バスタブにはうっすらと水が張られているようで、その水面にはキバナくんの血が不純物のように混じりこんでいる。何度か音が繰り返され、彼が苦労して身体を動かそうとしていることがよくわかった。
「名前さん、どこにいってたの?」
それは甘ったるく不気味な声だった。ようやく身を起こすことに成功した彼の顔は、とても正面から見れたものではなかった。鼻血を出して、頭からも血を流し、何日も上手く眠れていないであろうと察せられる目元をして、呂律は回っていない。白に囲まれた空間の中だと、その姿はよけいに異様だった。
彼はバスタブのふちに腕を預け、そこに頭を載せた。目がとろんとしている。どこまでも丸みのある男だ、と思った。
「キバナくん、私はここにはもう来ない。これが最後」
「来ないって、どういうこと?名前さんの家、ここだろ。帰ってくるのはここだ」
「ちがうよ」
「ちがくない」
「もう、ちがうよ」
しばらくの間バスルームは静まり返った。沈黙の中を時折水音が横断し、すぐに消えていった。私は床のタイルの継ぎ目を目で追っていた。キバナくんの顔を見ることはできなかった。
鼻をすする音がする。粘度が高そうなその音は、キバナくんの鼻から血が断続的に出続けていることを示していた。
「かわいそう?」彼の声は掠れていた。
「俺、かわいそう?痛そう?見てられない?」
「見ていられない」正直にそう答えた。
「それなら、俺のこともっとかわいそうがってよ。そばにきて、俺のことを抱きしめて。そしてここで一緒にねむるんだ。赤ん坊みたいに」
「それはできない」
「どうして」
「かわいそうじゃないから」
「名前さん」
「キバナくんのことをかわいそうなんて、全然思えないから」
私は必死に床のタイルを見続けた。何かに追われているように溝を行ったり来たりして、ざらざらとした材質の模様から何らかの意味を見出そうとした。もちろん意味なんてものはどこにも存在しなかった。
「どうして私が、キバナくんが落っこちないように見張ってあげなくちゃいけないの?どうして、そこから先は崖になっているから危ないよって、言い続けなくちゃいけないの?そんなことをするために君といたわけじゃない」
床から目を引き離しキバナくんの目を見つめた。鼻から流れる血が手に落ち、そこを伝ってバスタブの側面にも一筋の赤い線が生まれ始めていた。その光景が何故だか赤子と母親を繋ぐへその緒のように見えて気分が悪かった。
「ちがうよ」
「何が違うの?」
「そうじゃない。"そんな意味"じゃない」
キバナくんは立ち上がった。常人より遥かに長い彼のシルエットは、巨大な影となって、生き物のようにバスルーム全体を覆い隠そうとしている。私はその暗く濃い影の中にすっかり含まれてしまった。彼の鼻から垂れる血が大きくひとつ、水面に落ちて吸い込まれていく。
「名前さんは俺のことをめちゃくちゃにしたよね。どろどろになって、俺、ほんとうにしたいことが何なのかわかったんだ」
彼はその伸びすぎた足でバスタブをまたぎ、私の目の前で両足を揃えて立ち止まった。その爪先の前に血が落ち、床に模様を描いた。それはタイルの溝に入り込み、じんわりと床を侵食していく。
「名前さんのことをめちゃくちゃにしたい」