提督、と普段の妙高に似つかわしくない鋭い声が私を呼び止めている。私はそんな彼女の声をどこか遠くに感じながら、どうやって動かしているのかもわからない足で廊下を駆けている。こんな姿を他の艦に見られてしまえば、この立場に就く者としては沽券に関わる問題である。しかし幸いなことに、目的の場所に辿り着くまでに遭遇したのは妙高のみだった。彼女ならばおそらく理解してくれるはずだ。
私は治療室の扉を開け、ベッドに横たわる人物を確認した。広く殺風景で、著しく清潔を保たれたその空間には、羽黒がいくつかの管に繋がれて命を保っている。足がすくみ、心臓が直接震えているような激しい焦燥を覚えた。身体の感覚の無いままに私は彼女に近寄り、その青白い顔を見つめた。彼女の顔の半分は包帯で覆われていた。
「はぐろ」
きちんと言葉にできたかはわからない。まったく無意識に私は彼女の名前を呼んでいた。彼女が生きていることを示す単調な機械音は耳を通り越して脳髄に直接響いてくるようだ。彼女が確かに生きていることはわかったが、声が聞きたかった。私はその場にしゃがみ込み、シーツに頭を預けた。
「しれいかんさん」
見上げると、羽黒が薄目を開けてこちらを見ていた。
「羽黒」
「しれいかんさん」
「羽黒」
「いきています。はぐろはちゃんと、いきています」
嗚咽と共に涙が出てきた。彼女の声を聞けたことで、提督としての少しばかりの矜持が、みっともなく泣き喚くことを防ごうとする。涙を押し殺そうとして喉が痙攣している。彼女の身体に頬を寄せると、命のぬくもりを感じることができた。
「すぐに治療するから。すぐ治るから」
彼女たちの身体にだけ作用する修復剤はきちんと一定数の備蓄がある。修復剤の使用許可を出すために立ち上がろうとすると、彼女の左手が弱々しく私の指に触れた。
「まだ、大丈夫です。司令官さん、もう少しここにいて」
確かに、ここにいるということは一定のラインは保たれているということであるが、彼女のこんな姿は見ていられなかった。ここへ来たのは無事をこの目で確認したかったからだ。すぐさまいつもの状態に戻してやらねば、苦痛は続くのだ。
「羽黒、わかって。私はあなたのその姿を見ているのがつらい」
「どうして。司令官さん。羽黒、司令官さんのためにがんばりました。羽黒をほめて……どこにもいかないで」
普段の彼女が私に何かをねだることなど滅多にない。彼女の願いを聞き入れたいという思いと、一刻も早く彼女を苦痛から解放してやりたいという思いが胸中で巡る。しかしながら、顔の半分が包帯に覆われた痛々しい彼女が懸命に発するその言葉に抗うことはできなかった。私は椅子を手繰り寄せ、彼女を見下ろした。すると彼女はうっすらとした笑みを浮かべた。
「司令官さん、私、最初に右目を負傷しました。たぶん、眼球ごとどこかにえぐり出ていきました。それで、死角になった右半身に砲撃をもらってしまって、いま、右腕もありません」
その言葉を聞いた私はいったいどんな顔をしていたのだろう。巨大な力で誰かに肺を握り潰されているような激しい圧迫感があり、呼吸がろくにできなかった。手足の先から凍りついていくみたいに身体が徐々に冷たくなり、自分をコントロールできなくなっていくのがわかる。身体が大きく震えはじめた。そんな私を、どこか陶酔した表情で羽黒が見つめている。
「ね……司令官さん、羽黒の右腕がないということを、ちゃんと確かめてみて」
彼女はゆっくりと時間をかけて左手でシーツをはだけさせていった。彼女の腕に刺さった管が揺れ、点滴のバッグをぶら下げる金具が音を立てた。
彼女の右腕は、上腕の半分あたりから下が完全に失われていた。前腕があるべきはずの部分はぽっかりと空虚で何もなく、白いシーツが機械の青白い光を不気味に反射している。
「気付いたらなくなっていました。海に落ちたのだと思いますけど、魚は私たちのようなものの肉を食べるんでしょうか」
「羽黒、だめだ、いますぐなおさなきゃ」
「司令官さん、お願い。羽黒の腕に触って。なくなってしまったことをちゃんと確かめて」
か細い声で囁くようにそう言った彼女は、ほとんど力の入らないであろう左手を動かして私の手に触れた。私はその手に導かれるままに、彼女の右腕の切り口にそっと触れた。包帯で覆われてはいるけれど、おそらく綺麗な断面ではない。きっとちぎり取られるようにして彼女の腕は海に沈んでいったのだ。
「羽黒、ごめんなさい、ごめんなさい」
「どうして司令官さんが謝るのですか?私はただ、司令官さんにほめてほしいの」
「褒める?」
「そう。だって、私はあなたのためにがんばったから。司令官さんのためだと思ったら、なにも怖くはなかった」
「羽黒」
「私、がんばりましたか?」
「うん」
「私、司令官さんのお役に立てましたか?」
「うん」
「司令官さん……司令官さん……」
「お願いだから、もう、無茶しないで……。羽黒がいなくなっちゃ、いやだ」
私はついに子どものようにしゃくりあげながら泣いた。彼女の首元にすがりつき脈を確かめるように鼻先をつけた。とめどなく溢れる涙が彼女の細い首を伝ってシーツに落ちていく。片方の手で、包帯に覆われた彼女の顔の半分を撫でた。彼女は私のためだと言った。私は彼女にそこまでしてもらうほどの人間ではない。はたして償いきれるだろうか。自分の心臓に楔が打ち込まれる、重くはっきりとした感覚があった。
「司令官さん、やさしい人」
耳元でそう呟いた羽黒がどんな顔をしているのか、私にはわからない。