夜の海のような星空だった。青い闇に浮かぶ、漣のようにきらめく数多の大粒の星は今にも落ちてきそうなほど生々しく、少し不気味ですらあった。風が運んでくる潮の香りがますます天地の判別を鈍らせる。俺はゆるく頭を振って、額の装飾具を外したあとターバンでそれを巻いて脇に抱えた。
優秀で神経質な政務官に追い立てられ、最も不得手としている事務仕事を、彼の納得できる一線を超えるか超えないかの際どい辺りまでなんとか済ませたことによる疲労は主に、俺の機嫌をある程度まで押し下げていた。幾分荒く、それでも重い足取りはさながら砂海を歩いているかのようだ。天壌無窮か、と怒りを込めて空を仰ぐ。
紫獅塔に向かう道を短縮するため広場を横切っていると、夜も更けたはずが黒秤塔に一点の明かりがおぼろげに灯っていた。まず間違いなく彼女がそこにいると判り、寝室に向かっていた足をそちらへ向けた。今度は宙に浮かぶように軽い足取りになった。
そこにいたのは案の定名前だった。黒秤塔内の彼女の研究室はひっそりと静まった建物の中で唯一呼吸をしている。分厚い本に囲まれた彼女は左の肘を机につき、右手でその紙のかたまりの一部をめくろうとする姿勢で不自然に止まっていた。眠っているのだ。思わず笑みがこぼれる。
そっと後ろから近付き燭台を遠ざけ荷物を山積みの書物の上に鎮座させて、彼女に覆い被さる形で辞書から彼女の指を離す。存外大きな音を立てて閉じたが彼女が起きる気配はなかった。これほどまで深く寝入っているというのに、彫像のような姿勢で留まっていたとは驚くばかりである。そういう、生真面目なのか不器用なのかわからない部分も好ましく感じてしまうのは、俺の頭がインクでぼやけているからでは決してない。
しかしながら頭の中が墨で濁っていることは事実なのであって、俺の判断基準というものは通常より低い段階に落ちていた。つまり普段であれば第一の扉は固く鎖されているはずが、それが開け放たれた状態にあり、かつ第二第三の扉あたりまでが、あきらめたと言わんばかりに口を大きく開けているのだった。もっと簡単に言ってしまえば、彼女の寝顔は非常に可愛かった。
俺は彼女を覆ったままで、先程厚い本から引き離した指に自分の手を添わせた。金属器である指輪が彼女の甲の上を滑る。
「名前」
耳元で呟いてみたがまだ彼女は深い眠りの中にいる。近くで見れば彼女の目許には隈が、悪い予言のようにうっすらと色を滲ませていた。根を詰めるは致し方ないが、どうしたって休息は必要だ。彼女の私室は宮殿内ではここ一か所のみだというのに、この部屋には寝具らしきものは見当たらない。仕方がない、そういうことだからと半ば強引に整理をつけ、紫獅塔内の自分の私室に寝かせてやろうかと脇に手を入れたとき、名前が唸った。子どものように無垢なそれは俺の意をほんの少し削いだ。
「名前、きちんとベッドで寝なさい」言葉に反して、柔らかく口にする。
「シン様……。なぜ?」重たげに瞼を押し上げる彼女はまだ現実との距離感を掴めていないようだ。
「ジャーファルに掴まってね。頭の中までインクくさいよ」
「そうだったのですか。お疲れのところ私めのせいで、申し訳ありません」
「君がいなかったらもっと機嫌が悪かったよ」
「お加減がよろしくないのですか。早くお休みに」
「君はどうする」
「家に帰るのも面倒なので、このまま朝までこちらにいても構いませんか」彼女は部屋を見渡した。
「馬鹿か?」
まだまだ夢路から抜け出せないでいる彼女が示した反応は、俺の言葉にぼんやりと口を開くことだけだった。わずかの隙間だが、その幼気な様子が逆に蠱惑となって俺を動かせる。
「俺の隣にいてくれ」
稚児のような仕草で彼女は頷いた。
運ぼうとしたが彼女がそれだけは適わないと頑なだったので、不安定な足運びの名前の腰を支えながら私室に入った。香の焚かれた暗がりのそこに、彼女が水面下で怯えを見せていることははじめから知っている。本当のはじめから。支える手が骨盤のあたりに触れると、何故彼女の身体に細かな震えが走るのかも。先に寝具に腰掛けて、彼女の手を取る。
「こちらへ」
彼女は俺の言葉に従い、おとなしく寝具の上に膝を付いた。はっきりとは見えないが彼女は少し混乱しているように思えた。俺は彼女の手首の内側に口付ける。ごく薄い皮の下で脈打つ流れを肌で感じた。
「君が外してくれないか」
身体に纏う金属器のことを示すと彼女は戸惑うようにゆっくりと、しかし正確に俺の身体から王たる威厳を剥いでいった。広げたターバンの上に置かれたそれらが非難めいた鈍いきらめきを放つ。最後にゼパルの金属器を抜き取ろうとした彼女の指ごと手を掴んで引き寄せ、首筋に唇を寄せた。ここからも彼女の鼓動が聞こえる。実に心地の良い音だった。彼女の衣服の隙間に左手を差し込んで、骨盤のあたりをなぞる。名前は小さく引き攣った声をあげた。
「怖いか」
「いいえ……。ただ、あなたがそのような汚らわしい箇所に触れることが耐えられないのです。あなたがお触れになってよいものではございません」
「きたないものか。君は美しいよ」
彼女は詰襟で首のほとんどを覆い隠している。先程口付けた露出している部分でないところをさらけ出すために、胸の辺りまで右手でひとつひとつ釦を外す。そうして現れた裂傷の目立つ白い首に唇で優しく触れ、そのまま下へおりて骨ばった胸骨に口を寄せると彼女はまた震えた。しかし今度は怯えからくるものではないとわかっていた。左手で腰に爪を立てる。ここには、彼女がかつてヒトとして扱われなかった過去がある。奴隷に施される焼印は、遥か東方の国を象徴するものであった。彼女の腰にはその跡がくっきりと残っている。焼印を爪でなぞると彼女の震えは一層強くなった。
「恥じることはない。名前も俺も、同じ“ただの”人間だ」
名前はその言葉に、敬虔な教徒のように清らかで純粋な目を俺に向ける。あなたは一体何をおっしゃっているのだと、その瞳は訴えていた。彼女が奴隷であったことに縛られているというわけではない。その過去は昔、共に焼べて灰にしたのだ。それでは彼女は何に囚われているのか。
名前の頬を両手で包み斜交いに顔を近付けた。彼女は真っ直ぐに俺を見つめ、身を委ねる。
「だめならもっとちゃんと拒絶して」
返事は聞かなかった。
131205