薄い闇と煙草の煙の匂いが部屋に満ちていた。僕は玄関の明かりを点け、急いでリビングに向かった。とは言ってもさして広くない、一人暮らし用のアパートであるからほとんど時間はかからない。青い顔をして花束を小脇に抱え、狭いアパートを無遠慮に駆ける男の姿なんて、ちっとも絵になっていない。それでも僕は気が狂ったみたいに震える指でリビングの電気のスイッチを押した。
 そこにはちゃんと名前がいた。リビングの小さなテーブルに顔を伏せて座っている。規則正しい肩の動きは、彼女がとにかく生きてはいることをきちんと証明している。これは大袈裟な心配などではない。僕の生業に関係した、至極真っ当な憂慮なのだ。
 僕は悟られぬようひっそりとため息をついて、音を立てないようにしながらテーブルの上に花束を置いた。季節の白い花を集めて作ったブーケである。その花弁の匂いが、彼女が伏せている二の腕のすぐ横の灰皿の縁にかけられた吸い差しの煙の臭いと混じって、なんとも言えない生っぽい悪臭になってしまっている。僕は彼女の向かいの席に腰掛け、半分ほど灰になった吸い差しを潰し、火を消した。灰皿には底が所々見えるくらいの吸い殻が全て違った形で潰され、捨てられていた。それを見て僕は眉をひそめる。几帳面な彼女はいつも丁寧に、同じように煙草の火を消す。こんなに乱雑に放り出された灰皿の中身を見たのは初めてだった。不審に思って吸い殻のひとつを検分しようとしたとき、彼女がそろりと頭をあげた。眠っていたにしては明確な首の動きだったので彼女はずっと起きていたのだろうかと思ったが、瞳の淀み具合を見て、それはないな、と確信した。彼女は、肘を付いた僕が自分のことをじっと眺めていることにほとんど注意を払わず、二、三瞼を片手でこすり大きく首を回した。その時に覗いた白い喉はなんともなまめかしい代物だった。

「煙草、点きっぱなしでしたよ」

 僕は頬杖をついたまま彼女にそう告げた。しかし彼女はこちらに一瞥をくれるどころか、灰皿のすぐ側に置いてあったケースから煙草を一本取り出し、ライターで火を点けて気怠げに吸い始めた。そしてテーブルの脇に重ねてあったファッション誌を摘み取り、煙草を口に咥えたままページを繰りだした。

「名前。煙草の火、危ないですよ。点けたまま寝るなんて、どうかしている。しかも部屋の電気も点いてない。真っ暗だ。ねえ、僕は心配したんですよ。とても心配したんだ」

 彼女の態度に僕はなかなかに怒っていたのでいささか語気が荒くなってしまった。その説教を耳にしてもなおこちらを見ようとしない彼女にいよいよ怒りがある地点を越え、僕は彼女の口から煙草をひったくり灰皿に押し付け、それを持ったままキッチンに向かいシンクの隅のごみ捨てに中身を放り投げた。そしてグラスをふたつ取り出し、ミネラルウォーターを注いだ。
 そのふたつのグラスを持ってリビングに戻ると、彼女が雑誌を読むのをやめてブーケの花をいじっているのが目に入った。傷付けないよう注意深く花弁に触れる指先や、大人しそうな横顔がいつもの彼女であることを感じさせる。僕がグラスを静かにテーブルの上に置くと、彼女は小さく礼を言った。
 彼女が黙って水を飲んでいる間、僕はずっと彼女を真剣に見つめていた。熱情を持った視線というのではなく、どちらかと言えば医者の視線で。人の変化を見抜くといった技巧に関しては職業柄ちょっとした自信があるのだ。彼女を仔細に点検していると、やはり普段とは違った部分がいくつかある。形として現れているものもあれば、表面には浮き出ていないものもあった。

「なにかあったんですか」

 僕はつとめて優しく穏やかな響きになるように言った。彼女は未だに僕を見ようとしない。水を口に運んだまま白いダリアをぼうっと眺めている。

「名前」僕は肘を付くのをやめた。
「“なにかあったんですか”?」名前はグラスを傾けたまま言った。
「面白いことを聞くね、ジョルノは」

 彼女はグラスをゆっくりと左右に振り、中の水を弄んだ。今の僕も、グラスの中で踊る水と大差はなかった。

「今日はどうしたんですいったい。また映画か何かの真似ですか」

 鑑賞したドラマや映画の気に入りの台詞を真似してふざけ合うことを、世間一般の恋人たちと同じように僕たちも時折やっていた。イタリア映画に関して言えば、僕は『8 1/2』、彼女は『ひまわり』が好きだった。どちらの作品にもマルチェロ・マストロヤンニが出演しているので、僕は彼の真似が少しばかり上手である。

「“崇高な思想でも聞きすぎると寝言になる”」
「それは……ブチャラティの好きだった映画ですね」
「そう。彼の好きそうな映画だった。私も好きだよ」
「“詩は説明すると陳腐になる”とか」
「よく覚えてるね。ねえ、ブチャラティは素晴らしい人だった」
「ええ」
「ジョルノ」
「はい」
「私、トリッシュと寝たよ」

 言葉を失った。その喪失を一瞬で済ませられれば良かったのだが、彼女の言ったことを理解できるまで(あるいは理解しようとするまで)長い時間がかかった。僕のそうした精神の不安定さがスタンドに影響して暴走し、近くの生命体である花束は狂ったように成長し始めた。

「彼女はどこか私とブチャラティを重ねてたんだと思う。変だよね。似てるところなんてどこもないのにね。今はミスタがいるから、ちょっとした思い出づくりみたいなものだよ」
「それは、やっぱり映画の台詞ですか?」
「確かに映画になってもおかしくないかもね。何と言ってもひとりひとりの人生が濃密すぎる」
「名前、ちゃんと答えて。君は本当にトリッシュと寝たのか?」
「さっきからそうとしか言ってない」
「君はそれを僕に告白して、どうしたいんだ」
「べつにどうもしないよ。ただね、ジョルノ。それは半年も前のことだったんだ」

 名前はそこで初めて、僕と瞳をかち合せた。

「全然、気が付かなかったでしょう。ううん。気付こうとしなかった」

 気違い染みた成長を続けていたダリアがついに枯れ、うつむくようにして首からぽとりとテーブルの上に落ちた。清らかな白さは見る影もなく、煤けた色となり生命の抜け殻としてただ無表情に横たわっている。

「君は僕に何を求めているんだ」

 スタンドの暴走はなかなか止まない。ブーケは、それ自体が意思を持ったように思うまま葉や茎を伸ばし、花弁や花粉の香りを強めている。名前はそれを見てかなしそうな顔をした。

「ちがうんだジョルノ。その逆なんだよ。私が彼女と関係を持ったことで、あなたが私に何かを求めてほしかった」

 彼女はいたわるように白いスカビオサの花を撫でた。彼女に触れられたスカビオサは、不思議と落ち着いていくように見えた。

「僕は今の名前がとても好きだ。これ以上望むことなんてありませんよ」
「そういうところ……あなたのそういう部分。どうしてわからないのかな。あなたは自分で自分を傷付けてるんだ。そしてそれに周りも巻き込まれちゃう」

 困窮した声で彼女は僕を責めたが、僕には名前が彼女自身を咎めているように聞こえてならなかった。

「はっきり言う。ジョルノ、あなたって存在は矛盾してるよ。まるでだまし絵みたい。成立するはずがないのにそこに在る。あなたの本質は限りなく利己的で、ある意味とても人間らしいのに、高潔な人格者の血もまた確かに流れている。真っ赤な心臓から真っ青な血が出てくるみたいにね。それは本来あってはならないことだった。おかしいことで、間違ってる。正されなくちゃいけなかった」

 名前の黒い目は虚ろだった。感情の読み取れないそのふたつの瞳は、色を失ってしまったように感じられた。僕は言うべき言葉を見つけられず、部屋の置時計の刻むこつこつという音を黙って聞いていた。僕の頭には、部屋の沈黙を切り刻んで食べていく鋭利な音のように響いた。その音が頭の中を静かに浸食していくのを食い止めようと額に手を当てて首を横に振ると、視線の先に水の染みた跡を見つけた。はっと顔を上げると、名前が瞳に涙をたっぷりと湛えていた。

「かわいそうなジョルノ。あなたはいつかきっと自分に耐えきれなくなる。どのような形であれ、自分を壊してしまう。そして私にはそれをどうにかしてあげられない。助けてあげられないよ。かわいそうに。かわいそうに、初流乃」

 僕は名前をきつく抱きしめて涙を吸い取ってやりたいという強い気持ちに駆られた。けれど、蝋で塗り込められたみたいに身体はぴくりとも動かなかった。

「でもわかってね。私は何もしなかったわけじゃない。むしろ色々なことをした。必死になんとかしようとしたんだよ。それでわかった。これは、どうすることもできない種類の問題なんだ、って。そして私はその事実を理解するために、色んな部分をなくしちゃった」

 絞るような声でそう言うと、名前は僕の右手を両手で掴んだ。手はひやりと冷たく、そのあまりの温もりのなさに驚いて彼女の手の甲に目をやる。するとそこには、皮がめくりあがり下の肉が覗いた、腐った女の手があった。腐食はどんどん進行しているようだった。しかしそれはまぎれもなく名前の手だった。僕はよほど彼女の頭を自分の胸に抱え、肩をさすってやりたかった。彼女の匂いをいっぱいに吸いたかった。温かな(この際冷たくてもかまわない)肌を感じたかった。その衝動を抑制するように、身体は寸分も動いてはくれない。

「最後に話すことができてよかった。どうか元気でいてね」

 名前はそっと手を離した。その手は今ではもう、ただの骨となっていた。

「さようなら」








 脳をえぐるような鋭い噪音が断続的に鳴り響いている。頭が物理的に削り取られているみたいだ。僕はほとんど無意識に頭を抱え、その不快な音を頭の中から追い出そうとした。けれどどれだけ頑張っても、(例え耳をすべて仕舞い込んだとしても)その耳障りな音を退けることはできないだろうと思った。

「ちょっとジョルノ?あんた一体何してるのよ」

 悲鳴のようなその大声とほぼ同時に、頭の中の不愉快な音はたちまち消え失せた。緩慢に顔を上げると、紙の買い物袋を片腕に抱えキッチンに立ったトリッシュが、もう片方の手でコンロのスイッチを止めているのが見えた。彼女は眉を吊り上げ、わずかに目を細める。

「やかん。ドアの外まで響いてたわよ」

 “やかん”?あの不快なけたたましい音は、やかんが沸いたことを知らせる音だったのだ。そう思い至ると、次に僕は自分が伏せて座っている場所──それがまさに、先程まで彼女がいた場所であることに気付いた。周りを見回すと、そこは紛れもなく名前のアパートだった。ただ細部は少しずつ異なっている。灰皿やダイレクトメールやファッション誌の代わりに、花瓶に活けられた白のリシアンサスと数冊の文庫本が、静物画のように精緻な角度で置いてある。手頃な厚さのやや日に焼けた文庫本はすべて日本語で書かれていた。残念なことに僕は日本語の読み書きがほとんどできないので、それはほぼ間違いなく彼女の所有物だろう。そのうちの一冊を手に取る。何が書かれているのか、さっぱりわからない。睨むようにして表紙を眺めていると、購入したものを冷蔵庫に入れ終えたトリッシュがペリエの瓶とグラスを手にしてやってきた。彼女はたおやかに腰掛けると、点検するようにじっと僕の方を見た。

「飲む?」と彼女が訊いた。僕は首を振る。
「そう。何か飲んだ方がよさそうな顔をしてるけど。あんた顔真っ白よ、ジョルノ」

 瓶のキャップを開け中身をグラスに注ぎ、口紅が付かないようトリッシュは手元の鞄からストローを出して慎重に飲んだ。何でも出てくる女性の鞄というものには、ちょっとした魔法がかかっているのかもしれない。レモン味のペリエ(彼女は本当に、ミネラルウォーターはフランスのもの以外口にしない)を飲んで一息ついた彼女は、なんでもなさそうに言った。

「いつまでもこうしてはいられないのよ」

 彼女はつとめて自然に言おうとしていたが、その言葉にたくさんの意味がこめられていることに間違いはなかった。彼女は右手で左手をぎゅっと握った。

「あれはとても不幸な“事故”だった。散々調べたけど、やはり気の毒としか言いようのない、誰を責めることもできない事故だったのよ」

 炭酸水が小さな音を立ててはじけていく。

「世の中にはそういうことだってあるのよ。あたしたちはそれを知っているはずなの。ただそれが身近で起きるとは夢にも思っていないのね。あれからひとつ季節が終わったけど、あたしだってまだ信じられない」

 トリッシュは重たげな口調で静かにそう言うと、僕の手の下から本を取った。そして僕がやったように、表紙の文字を睨んだ。しかしすぐに諦め、僕の方に本を置いた。

「鍵は?どうやって入ってきたんです」僕は彼女の綺麗に整えられた爪を見つめながら言った。
「ミスタが、ジョルノの様子を見に行ってやったらと言うものだから」
「なるほど」ミスタならば鍵くらいどうとでもできる。
「あのさ……ジョルノ」
「なんでしょう」
「あたし、あなたに……あなたに言わなくちゃいけないことがあるの」

 彼女は丁寧にマニキュアの施された爪で、それはそれは強く左手の甲を握りしめた。痕になってしまうだろうなと僕は思った。水は相変わらず元気にはじけ続けている。

「いいんですトリッシュ、わかっています。君が苦しむ必要はない」
「でも」
「トリッシュ、悪いんですが、ひとりにしてもらえませんか」

 それを聞いたトリッシュはしばらく動かず指を震わせていたけれど、やがてゆっくりと力を抜いて立ち上がった。視線が部屋の中を彷徨っている。彼女の目はつらそうに歪んでいた。そして僕を見下ろして言った。

「ミスタが、もうこのアパートは引き払うべきだと言っていたわ。私もそう思う。だって、あの子の香りがこれっぽっちもしないもの」



 トリッシュが出て行ってからも僕は同じところに留まり続けた。何時間もただそこに座っていた。窓の外が夕焼けに染まり、紺色の夜が訪れてもそのままだった。炭酸水は泡の抜けた生ぬるい水となり、花瓶の花はいくぶんぐったりしているように見受けられた。“いつまでもこうしてはいられないのよ”、とトリッシュは言う。“いつまでもこうしていたい”、と僕は思う。けれどそれは間違っている、とどこか遠くの方から声が聞こえてくる。それはひっそりとした雨の予感のように僕の頭を掠めるけれど、やがて風にかき消されてどこかへいってしまう。僕は目をつむる。深く深く目をつむる。そして意識を遠くに飛び立たせ、その場所にピントを合わせる。

 そこは墓地だ。同じような形の白い墓が、均等に機械的に並んでいる。曇り空の鈍い灰色をその身に受けた墓石は何を言うでもなく大人しく佇んでいる。上空は強風が吹いているのか、所々千切れた雲の隙間からわずかに青が覗き日が差しているため、墓地というよりは朽ちた教会のような趣を感じさせる。
 僕は喪服を着て、白いリシアンサスの花束を片腕一杯に抱えている。その黒と白のコントラストや、灰色に埋め尽くされた墓地に差し込む光の色の光景は、まるで古い白黒映画を見ているようだ。
 石畳を歩くのは僕一人だけだった。一人分の重さを反映させた舗石の立てる音は不思議に響いた。花弁が一枚、音もなく落ちる。僕は目的の場所までたどり着くとそのままそこでじっとしていた。墓石に刻まれた「山上の垂訓」の文字を追ったが、それはただの文字の羅列として頭の中を通り過ぎていった。

「“E' una festa la vita, viviamola insieme.”」

 マストロヤンニを真似て呟いてみたつもりだったが、それは結局僕自身の言葉として吐き出された。“人生は祭りだ。一緒に楽しもう”。僕は気障ったらしくもこの言葉で彼女と一緒になる宣言をするつもりだった。花弁が揺れる。雲の間から差し込む透き通った細い光が、名前の名が記された墓石のすぐそばに差し込んだ。僕はその光を遮るように腕を突き出し、右手でリシアンサスの白い大振りな花弁を一枚、静かにちぎり、彼女の墓の上に捧げた。
 僕はそれを何度も続けた。そして、この白い花弁が同じように白い骨となり眠る名前の上にやさしく降り積もってくれることを願った。これからもずっと、僕はその願いを抱えて生きていくだろう。永遠に。
130918


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