「南の海はどうしてあんなに青いの」

 眠っていたはずの女が口をきいた。人に何かを尋ねるにはあまりに小さな声だった。夜の帳に溶け込んでいきそうなほど微かなその声には、返答を求めていないような響きがある。あるいは、こちらの返事を恐れている。目的の人物がいないとわかっている部屋へ繋げた電話のようだった。ベッドに腰かけ煙草を吸っていた俺は少し迷ってからシーツに潜り込み、彼女へ目をやった。煙草の火は消さなかった。
 彼女は肩を小さく上下しながら俺に背を向けている。先程の言葉は聞かなかったことにしてやってもよかったが、その肩の向こうから覗く、俺のものとは異なる色をした目がこちらを静かに見つめていたので、うつ伏せて軽く煙を吐いた。

「赤道に近い国はまず太陽光線が強い。それから、海底が白い砂地なんだ。これは珊瑚の死骸だが、例えば日本の沿岸などは火山性の砂が海底を成している」
「つまり、黒い」
「その通りだ」

 出来の良い生徒の答えに俺は微笑み、サイドテーブルの灰皿を手繰り寄せて煙草をもみ消した。そのあいだに彼女は身体をひっくり返して、俺と向き合うかたちになっていた。

「限りなく垂直に近い太陽光と白い砂が、あの鮮やかな青を生み出している」
「知っていて聞いたのか?」彼女は首を小さく横に振った。
「知らなかったよ。こういうことに詳しい承太郎に、ずっと聞いてみたかったんだ」
「そうか」

 顔に落ちた彼女の前髪を手の平でかきあげると、彼女はいくぶん眠たそうに瞼を重くさせた。そんな顔を見ているうちにどうにもやりきれない気分になったので、手を額から頬へずらしてゆっくりと覆い被り、彼女の喉を軽く握りながら深く口付けた。片手に収まるこの細い首は、意識して力を込めればいとも容易く折れるだろう。こうして加減を考え、彼女の首を柔らかく絞めながら舌を絡ませることがたまらなく好きだった。息の続かなくなった彼女が俺の肩に控えめに爪を立て意志を示すまで、止めてはやらない。
 音を立てて口を離すと、彼女は俺をそっと押して組み敷かれている体勢を抜け出した。そして起き上がるとおもむろに窓の外を眺め出した。雲のない空に月が出ている。その白い光は彼女の肌を冷たく照らしていた。

「承太郎、魚って眠るの?」

 こちらを見もせずに彼女がそんなことを聞いたものだから俺は少し憤り、後ろから彼女を抱え込んだ。手探りで煙草をケースから取り出し火を点け、短く吸い込んだあと彼女の顔に細く吹き付けてやった。

「魚だって眠るさ。生きているんだから」

 特に嫌がる様子もなく彼女は微笑んで、「君は素行に問題があるね、空条承太郎君」と言った。「偉そうな先公は好かねえ」と俺は言った。

「じゃあ、魚は夜になると寝床を探すんだね」
「夜行性でなければな」
「私だったらどこにするかな。珊瑚の中は堅そうだし、岩の中は暗いし……」
「夜の海に暗いもくそもあるか」
「たしかに」

 俺は長く煙を吐き煙草を口に咥え直した。空いた両手で、小さいけれど柔らかいふたつの丘を包むと、彼女は身を強張らせた。むずかしそうな顔をして俺の口から煙草を引っこ抜き、その右手を遠ざける。そんな行動は気に留めずに、白い胸をゆっくりとほぐしながら彼女の首筋にキスを落としていったが、ある一点でその行為をいったん止める。ここに触れることを彼女は好まないからだ。薄い腹を伝って片方の手を下へ移動させる。内股を撫でると彼女の唇から熱を含んだ吐息が静かにこぼれた。

「まって」
「ふざけるな。待てない」
「灰が落ちちゃうよ」

 彼女は右手を枝のような格好で宙に留まらせていた。なるほど先端の灰が今にも落ちそうである。俺は灰皿を彼女の方へ差し出した。しかし彼女はそれを受け取らず右手を口もとにやり、煙草を吸い始めた。

「おい」俺は彼女の耳を軽く引っ張る。
「ねえ承太郎」灰はシーツの上に落ちてしまった。
「何をやってる」
「神殿が、海の中にあるんだってね。それも『ブルーホール』の中にだよ。『青の神殿』っていうらしいけど。誰かが住むのかな」彼女はフィルターに口を付ける。
「そうだな、そう呼ばれている場所はある」俺は辛抱強く続けた。
「でも人は、海の中では生きていけないよ」

 彼女は時間をかけてゆっくり煙を吐いた。フリーダイビングの前に呼吸を整えるように。

「スイスに行く。彼についていくことにした。たぶん、そこで結婚することになると思う。内陸だから、海は見れないね」

 短くなった煙草の吸いさしを灰皿の上で丁寧に消して、彼女は言った。しばらく、すべての音が俺の耳から遠のいた。自分の時だけが止まっているような感覚に底知れない焦燥を覚える。音はゆっくりと時間をかけて俺の元へ帰ってきたが、その響きはそれまでと何かが決定的に違っているように感じられた。
 彼女はうつむいていた頭を上げ、振り返って俺を見据える。その瞳は夜の闇と月の光を混ぜたような色をして、瞬きの度に星のように輝いた。それで俺は彼女の瞳に涙の膜が張っていることに気が付いた。けれど、俺は口にしないわけにはいかない。言わなければならないのだ。きちんと、言葉にして。

「名前に向けるような種類の愛を、俺は他の女に抱けない」

 彼女は決して涙をこぼすまいとして目を強張らせていたが、口もとは震えてしまっていた。

「わかっていて俺を選ばない。意地の悪い姉貴だな」

 そう言い終わるより少し早く、俺は名前の身体を強く抱き締めた。彼女は俺の胸の中できちんと泣くことができたようだった。小刻みに震える肩に顔を埋める。そこには俺と同じように、星形の痣が浮かんでいる。
 俺は痣に軽く歯を立てながら、浅い海の底のように仄白い月の光を吸い込んだ名前の身体を眺め、その裸体で魚のように海を泳ぐ彼女の姿を想像した。生白い身体は、ある種毒々しいほどの青さには、どうあってもそぐわなかった。
130407


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