「いくらなんでも寒すぎる」
それは彼が現在1分おきに口にしている言葉だった。頑是ない子供のようにずっと不満を垂れ流しているのだ。私の隣で厚いコートのポケットに両手を突っ込んでさっさと先へ進もうとする彼を制止するため、赤毛の下に位置するフードを思いっきり引っ張る。
「何をするんだ」喉が絞まったと見える。彼は咳き込みながら手短に言った。
「わがまま坊や、歩くのが速いよ」
「早く行ってなるべく早く旅館に帰りたい」
「私の歩く速さは変わらないよ。残念だけど」
彼はますますむすっとした顔になったが先程より大分ゆっくりと歩き始めた。そして周りを見回してほんの少し表情を緩ませる。いわゆる白銀の世界である。葉がすっかり落ちてさみしくなった木の枝には、その代わりに雪の結晶が様々に光を反映させることで彩りを加え、午前8時の鋭くも澄み切った空気は青空をより際立たせる。
休暇を利用して泊まりに来たとある北国は、東京から新幹線で約4時間の旅路だった。観光招致のテレビコマーシャルを炬燵に入って一緒に眺めていたとき彼がこそっと「いいな」と漏らしたのだ。白一面の情景が珍しく映ったのだろう。そういうわけで私たちは今雪に囲まれている。ただ彼は銀世界を拝むには付き物の冷たい空気がお気に召さないようで、白い頬を赤くさせながらふてくされたように歩いているのである。
「氷点下で二桁ははじめて?」私は彼を見上げながら言った。
「二桁もなにもない。とにかく寒いよ」彼は肩をすくめる。
「冬生まれなのにだらしないな」
「そうかもしれない」
軽くため息をついて彼は微笑んだ。私を見下ろす綺麗な二つの目を覆う睫毛に露がそっと乗っている。私は踵を上げ、より明るい方の瞳の上の睫毛を払った。彼は一瞬呆け顔になる。
「何かついてたのか?」
「ちょっとね」
「ありがとう」
口の端をゆるく上げると彼はポケットからおもむろに左手を出した。そして私の右手をしっかりと握る。お互い手袋越しではあったが、どことなく暖かいように感じられた。
「無理しなくてもいいのに。寒いんでしょう」
「無理なんかしてない。言わせるな」
「素直じゃない」
「でも嘘吐きではないよ」
私たちは雪を踏みしめながら、『第三の男』の有名なラストシーンのように長い長い並木道を歩いていった。映画でも木は枯れていたけど、こちらはそれに白いおまけが美しく葉の代わりを成している。息を立ち昇らせて進んでいくとようやく目的の場所へ辿り着いた。
そこは大きくも小さくもない、手頃なサイズの湖だった。木々に囲まれ、その枝の合間から差し込む透明な朝の光を湛えた水面は、所々凍ってはいたもののゆるやかに波打っている。とても静かだった。
「おい……いないじゃないか」彼は少し皮肉の入った間延び声を出す。
「あれ、おかしいな。ここで合ってると思うんだけど」
「寒いからだろう。鳥だってわざわざこんな朝早くから水浴びなんてしないよ」
「だって誰もいないときにやってみたかった」
「せっかく持ってきたけど、使わなさそうだ」そう言うと彼は斜め掛けのバッグの中から食パン一斤を取り出し、ボールのように手の平の上で弾ませた。
「これから来るかも」
「そうだといいね」
私たちが何故朝っぱらからこんな道を寒さに耐えながら歩いてきたかといえば、湖にやってくる白鳥を見るためだった。当然売店は閉まっているだろうからわざわざ餌まで持参してきたというのに、湖には生き物の影すら見当たらない。私は少し白鳥を恨みさえした。
彼の左手をそっと抜け出し湖に近寄る。水面に映る歪んだ自分の姿を見つめたときに気付いたのだが、割に氷が厚そうである。完全に固まっているところを手袋で触って確かめたあと、徐々に体重をかけていったが氷はびくともしない。後ろを振り返ると彼はシャッターの閉まった売店の横に据えてある簡単なドラム缶の暖炉を検分していた。余程寒さがこたえているのだろう。
私は前に向き直り足を踏み出してみた。氷は微動だにしない。つま先で軽く叩いてみるも、音すらしなかった。調子に乗った私は両足で立ってみたあと足踏みをした。楽しくなってきたので少し進んでみようかと足を踏み出したところ、後ろからものすごい勢いで抱えられ、思い切り陸地に投げ出された。その衝撃で尻餅をついてしまう。
「馬鹿!なにやってるんだ!」
激昂した彼が私の前に立ちそう叱咤する。私は目を瞬かせ、地面に尻をついたまま耳当てを付け直した。
「どこまで行けるかなって」
「割れたら、割れたらどうする!」
「あんまり考えてなかった。いけそうだなって」
「死にたいのか、お前は僕を置いて死ぬ気か」
「はあ」
驚いたことに彼の目には薄く涙の膜が張っている。とりあえず立ち上がり、彼の腰を抱いて背中を優しく叩いた。彼はきつく私を抱きしめ返す。
「ごめんね征十郎」
「名前は馬鹿だ。心臓が止まりかけた。本当だよ」
「もうしないよ」
「当然だ。僕の目の届かないところでもそんなことしないって約束して」
「約束する。危ないことはしない」
「絶対か」
「もちろん」
子供のようなやりとりをしたあと、私は涙を浮かべた彼の、真っ赤になった耳に自分の耳当てをかけた。彼はそれを手にかけて位置を調整すると、手袋を外して素手で私の耳に触れる。ひんやりとしたそれは、暖まっていた私の耳にはいくぶん刺激が強い。
「つめたい」私は彼の両手首を掴む。
「まだ許したわけじゃない」彼は私の手を解いて今度は耳を引っ張った。
「本当につめたいし、痛い」私の目にも涙が浮かびそうだった。
「名前」
「痛いって……」
「よかったな。無駄にならなくて」
にやりと笑った彼が後ろを振り返るので私も彼越しに湖を見る。するとそこには、静かに水の上を飛行し湖の浅い部分に今にも降り立とうとする二羽の白鳥がいたのだった。
「なんで後ろ向いてるのにわかったの?」
「よく見えるからねこの目は」
「ああ……そうか」
「なんだその顔は」彼は容赦なく私の耳を引っ張った。
「少しは慈悲ってものをね……。まあいいや、パン出して。餌あげよう」
ようやく耳から手を離した彼はバッグの中から食パンを出して封を切った。その中の一枚をまず私に手渡し、そしてもう一枚を手に取る。その瞬間白鳥の一羽が彼の手からパンをひったくり、大きな声で鳴きながらそれを咀嚼した。唖然とする彼の表情は普段あまり拝むことのできない貴重なものである。
「名前、笑ってるんじゃない。こいつ絶対に許さない」
彼の目をも凌ぐ速さで餌を奪取した白鳥に素直に感心しながら私はもう一羽の白鳥にパンを与えた。こちらは穏やかな気性のようである。見たところ彼らはつがいらしい。私たちはしばらくそうして彼らに餌をやっていたが、雄の方が雌に寄り添いくちばしで彼女の羽を叩いたかと思うと、こちらを一瞥もせず飛び立ってしまった。大きく豊かな白い羽をはばたかせた彼らは真っ青な空によく映え、とても綺麗だった。
その姿を並んで眺めていたが、ちらと横の彼を見ると、つがいの美しい白鳥を眺める黄色い瞳が見開かれ、唇がわずかに震えているのがわかった。
「征十郎、来年も来ようね」
「もう少し暖かいところがいいな」
朝の贅沢な光が湖に反映し、森を明るく照らし出す。一日はまだ、始まったばかりだ。
130213