優しい背中 ヒル十 | ナノ












ヒル十












こんなことを思い出した。


たまに学校内であの人を見かける。
教室の外に出ることが少ないので、見かけることは極稀にだが、見付けると直ぐに奴だと分かった。
だから何だということはないのだが。

自分自身、頻繁にそこへ通うということはないが、一度目は本を借りに出向いた図書室で見かけた。
いや見かけたというよりも、会っただろうか。
時たまに無性に本が読みたくなることがあるのだ。それで珍しく図書室に行った。
本を選んで借りて、さあ教室に戻ろうと思い図書室を出かけた矢先に、あいつが図書室に入って来た。
思わずぶつかりそうになって、咄嗟に身体を扉の隅に寄せた。
避けきれずにほんの少しだけ触れ合った肩を残して、ヒル魔はこちらに顔も向けずにさっさと中へ入っていった。
確かに部活以外で接点はなかったし、あいつが無駄な関わりを持つことを嫌うのはよく分かっていたので、少し素っ気なくも思えるその対応に特に不満は持たなかった。つまり大して気にかけなかった。
きっとデータの整理をするのに静寂を求めて図書室に出向いたのだろう。

二度目も図書室で見かけた。
本を返却しにきたのだ。あれから一週間後だった。
本を返却して、さあ教室に戻ろうと思い図書室を出かけた矢先に、またしてもあいつが入って来た。
またもや思わずぶつかりそうになって、以前と同じように身体を隅に寄せた。
しかしいつまで経ってもヒル魔が中に入って来ない。
床に落としていた目線を上げてみると、ヒル魔は廊下に立ったままで、その細い身体を俺と同じように隅に寄せていた。



「…」



先に出ろと顎でこちらを指すヒル魔に暫く呆気にとられて、その場で立ち尽くした。
ヒル魔は苛々とした表情で舌を鳴らして、廊下から図書室内にいる俺の腕を思いきり引いた。
勢いでつんのめるように廊下に出た俺の腕を離して、ヒル魔は一度だけこちらをちらりと振り返って図書室に入って行った。

あの人が赤の他人に気配るだなんて、おかしな話だ。
図書室の一番隅の席まで歩いて行くヒル魔の背中を見ながらそう思った。
















思い返せば、今までにも幾度かそういったことがあった気がする。
部室の扉をわざわざ手で開けて待っていてくれたこともあった。転びそうになった所を気にならない程度に支えてくれたこともあった。なくしたと思っていた物をさりげなく渡されたこともあった。今思えば、わざわざ探してくれたのかもしれない。
いや、今思い返してみると全てがあの人なりの気配りだったのかもしれない。よくよく思い返してみないと分からない程度のものばかりだが。
何だか胸の辺りがむず痒く感じた。












いつもよりも少し長引いた練習を終え、皆一様にへたれこみながら部室に駆け込んだ。
だらだらと着替えていると、ヒル魔が銃を構わず乱射してくるので、さっさと着替え終えた。
黒木や戸叶はまだ着替えているので、ロッカールームからカジノ部屋に移動した。
椅子に腰掛け、テーブルに突っ伏した。
今日の練習量はいつも以上に多く、身体の疲労が半端じゃなかった。
ロッカールームで身体を休めようにも、あそこでは狭い上に、ベンチしかない。
とにかく身体を休めたくてここに来たのだが、テーブルの上には沢山の書類のような物が乱雑に積まれていた。その隣にはヒル魔がいつもデータ整理に使っているパソコンが置いてあって、ああデータ整理の途中なんだと、睡魔が襲う思考の片隅で思った。
着替えが終われば黒木達もこちらに来て帰ろうと声をかけてくれるだろう。
カジノ部屋に居る。黒木にそうメールを送ろうと携帯を手に取った所で、遂に睡魔に飲み込まれた。
記憶がぷつりと途切れた。

















鼻をくすぐる香ばしい匂いに、目を開けた。
ぼやけて見える視界に金色が見えて、数回瞬きを繰り返した。





「よく寝てたな」





低い声が耳に響いて、目を見開いた。
がばっと上体を起こすと、そこにはヒル魔が脚を組んでコーヒーを飲みながら座っていた。




「あ…、」




壁に掛かった時計を見てみると、時刻は練習終了から二時間も経っていて、少し焦ってヒル魔を見た。
そういえば先程、寝るまで沢山置いてあったデータが跡形もなく綺麗に無くなっている。データ整理は終わったらしい。

ヒル魔はカップを口につけたままこちらを一瞥し、そっと目を閉じると席を立った。
部屋の奥にあるシンクでカップを水洗いするとこちらに出てきて、椅子にかけていた制服のジャケットを羽織った。

あ、帰るのか。
ぼんやりとその光景を眺めていると、ヒル魔はちらりとこちらを見て俺の肩を指差した。




「肩出して寝んな」




言われて肩に手をそえると、薄手の毛布がかかっていて再度目を見開いた。
かけてくれたのか、ありがとう。
喉を出かけた言葉に、自分で驚いて飲み込んだ。




「次男達は先に帰ったぞ」




ヒル魔は鞄を肩にかけながらそう告げた。
やっぱり待ってくれなかったかと少し眉間に皺を寄せていると、ヒル魔はそんなに疲れていたならこんな所で寝ずにとっとと帰ればよかったのだと言った。
いや当初は寝るつもりなど無かったのだ。
ただ身体を休めたくて来ただけだ。
目で訴えるとヒル魔は返事のつもりかこちらに片手を上げて、そして部屋を出ていこうとした。

まさかと思うが、





「……俺が起きるまで、待っててくれた、とか?」










ヒル魔はドアノブにかけた手を止めて一度こちらを見ると、また扉に向き直って部室から出て行った。
その背中を見送った。











「朝練遅れんじゃねえぞ」













胸がきゅっと締まった。





後書き