死ぬ程嫌なのです。 姫→神 | ナノ








姫→神













「馬鹿言え、俺は浮気なんてしてねえよ」


姫川君はそう言います。そしてそのあと、さもそんなことを言われるのは心外だ俺がそんな男に見えるのかと言いたげな顔をして見せるのです。私はそんな姫川君に首を振って、黙ります。そこでこの話題は終わります。私が納得したかと言えば、いえ姫川君には全く関係のないことなのでしょう。私が納得していようがいまいが、私を黙らせれば、姫川君はそれでいいのです。なので私はいつも口にチャックをします。
無論、私は納得など一つもしていません。







姫川君との出会いは高校生活も三年目に入ったある日のことでした。
その日は大変麗らかな春日和で、お天道様が柔らかく辺りを照らし、暖かな風がやんわりと吹くという、とても素晴らしい気候でした。それに伴い私の胸の内も大変心踊り、正しく春の陽気にあてられたといっても過言ではなかったでしょう。
泣く子は更に泣き喚くという天下の不良校に通っているのですから、恥ずかしながら私もそれなりに喧嘩には慣れており、その日は校内で多数の相手と拳を交わし合っておりました。とても機嫌が良かったのです。
しかしその日のお相手は滅法強いお方で、更に私が春の陽気に浮かれていたことも相俟って、些か形勢が悪かったのです。
私とて、普通の女の子よりほんの少しばかり喧嘩っ早いというだけで、やはり同じ女の子です。先のことも考え、いえお嫁に貰ってくださるお方がいらっしゃればの話ですが、顔だけは死守したく、まるでジェット機の如く物凄い勢いで顔面に飛んでくる拳を避けようと身体をずらした所、間抜けにも足首を捻ってしまったのです。

ああこれは!もう駄目だと思ったその時でした。
いつまで経っても顔面は地面と熱い接吻を交わさないのです。それどころか、身体に痛みすら走らないのです。
固く閉じていた目を恐る恐る開けてみると、そこにはつい先程までジェット機の拳を振りかざしていた方達が床に倒れ込んでいるではありませんか。私は目の前の光景にも大層驚きましたが、それよりも何よりも、私の身体がいつまで経っても床に落ちることがない方が驚きでした。

さて、もうお分かりのこととは思いますが、屈強なジェット機の方達を倒し、私の身体を支えていたのが、姫川君でした。
姫川君は私の身体をゆっくりと立てて、優しくも声をかけてくれたのです。


「大丈夫かお前」


姫川君の顔を見た時の胸の高鳴りと言ったら!一体、何と言えばいいのでしょう。今まで十八年間生きましたが、こんな気持ちになったのは初めてでとても戸惑いました。あの感情は、きっとかの有名なときめきというやつなのでしょう。私もしばしば読んでは感銘を受ける少女漫画の恋する乙女達が胸を高鳴らせる、あのときめきです。それはどんなに素晴らしいものなのだろうと私も幾度も憧れたことがありますが、まさかここまで胸が締まるものとは思ってもいませんでした。

そのまま立ち去ろうとする姫川君に、私は思い切って声をかけました。こういう時は、第一印象が大事だとよく聞きます。あまり出しゃばらず、自然と声をかけることが大事なのです。


「私と付き合ってください!」


私は姫川君に恋をしたのです。













それから私は姫川君とお付き合いをすることとなりました。
姫川君の側にはいつも他に幾人もの女の子が居ましたが、姫川君はとてもかっこいいので、それも仕方のないことでしょう。他に女の子が居たことは早くから知っていましたが、私は姫川君に嫌われたくなかったので何も言いませんでした。確かに姫川君が他の女の子にも愛を囁くのかと思えば大変悲しくなり夜も眠れませんでしたが、しかし姫川君が他の女の子に熱を上げているようには到底見えませんでした。ですので私は我慢出来たのだと思います。姫川君が本当に愛してくれているのは私だけであると思えたからです。
しかしある日を境に、姫川君と一緒に居ても姫川君の心がここにあらずといった様になってきたのが顕わになってきました。その事実は私の心を大変乱し、胸の内は悲しさで一杯になりました。いつも私を見つめてくれていた姫川君のあの鋭くもかっこいい瞳が私を見ずに誰か違う人を見ていると思うと、それこそ泣いてしまいそうになってしまいます。でも姫川君は面倒な女の子を嫌うので、私はいつもぐっと涙を堪えるのです。













姫川君は学校で居る時、酷く愛しそうな顔で誰かを見つめていることがあります。
私も姫川君の目線のその先を追うのですが、そこには可憐な女の子なんて一人も居ません。居るのはいつも限って、神崎君です。一体どういうことでしょうか。私には皆目見当もつきません。
神崎君とは口をきいたことはありませんが、噂はかねがね聞いています。何でも実家は恐ろしい自由業を営んでいるらしく、本人自身も大変恐ろしい人と聞いていますが、実際はどうなんでしょうか。
神崎君と姫川君はよく口喧嘩をしては取っ組み合いに発展しそうになります。
一見すればとても仲が悪く見えますが、視点を変えれば仲が良くも見えます。そしてそういう時の姫川君と神崎君の顔は、とても生き生きしているのです。
私には、何一つとして分からないことです。








姫川君との付き合いが、最近悪くなってきました。姫川君が私と中々会ってくれなくなったのです。
何かと理由をつけます。そういう気になれないから、学校の補習があるから、家の仕事を手伝うから、バイクで事故を起こしたから、道の途中で産気付いた妊婦を助けているから、雨が振っているから、雪が振っているから、槍が振っているから、その他諸々。
しかし、これまでに姫川君が気分が優れないからと言って会ってくれなかったことは無かったし、学校の補習など出たことは一度だって無いし、家の仕事なんて殊更で、バイクなんて持っていないし、姫川君は人助けなんてしないだろうし、雨はおろか雪や槍なんて降っていないのです。
久々に会ってみれば、姫川君の服に短い金髪が付いていることがあります。勿論、私は金髪でも短髪でもありませんし、姫川君は綺麗な銀髪の長髪です。それにいつも姫川君は髪を上げています。どこかで見たことのあるチェーンのネックレスがズボンのポケットに入っていたりすることもあります。
これはもう、俗に言う浮気というやつなのでしょう。いえ、そうに違いありません。
ですので私は、姫川君に嫌われるのは死ぬ程嫌でしたがやはり真実を知りたいので大きく息を吸って震える手をぎゅっと握り、確と聞きました。
浮気をしているのではないかと。

姫川君は目を丸くしました。
それから私に言うのです。さもそんなことを言われるのは心外だ俺がそんな男に見えるのかと言いたげな顔をして。



「馬鹿言え、俺は浮気なんてしてねえよ」



そして私の髪を優しく撫でて、額に口づけをしてくれるのです。
それで納得しろと無言で告げます。
私は納得など一つも出来ません。


姫川君の愛しい人は、一体誰なのでしょう。
私には、何一つとして皆目見当もつきません。