あとのまつり



裏の森では蝉の大合唱が続いている。洪水のようなその音がますます夏の暑さを際立てていて、ついにエレンは黒い礼服のネクタイを解いた。
その隣で、涼しげな顔をしたリヴァイが同じように上着を脱いで腕を捲り、柄杓と桶を手にしている。

「あっちー…」
「うるせぇ。余計に暑くなるだろ」

エレンの手には寺に借りた塵取りと箒が握られていて、二人で緩やかな石段を昇る。
多くの参列客が揃う前に、墓前を整えてくるよう母親から言いつけられて、二人は一足先に霊園を訪れていたのだ。

「くっそー、…これ、他の奴らが来る頃には汗だくだぞ」
「文句は、あのクソババアに言え」
「あんなだから親父が寄り付かねぇんだよな、母さんは」

ぶつぶつと母親への愚痴を言い合って、足を踏み外さないように石段を辿る。
成人しようと家を出ようと、二人は気の強い母親には頭が上がらない。親族の揃う冠婚葬祭の折には、東京での仕事なんて言い訳は到底通用せず、こうして人手に駆り出されることになるのだ。
もっとも、連れ戻されるのは専ら次男のエレンで、家業を継いだリヴァイは休日を返上しているだけに過ぎないが。
古くから地元の名士として知られていた彼らの一家は、時代錯誤にもまだまだ旧来の慣習に捉われ続けている。
長男が家督を継ぎ、次男は家を出る。それがしきたりだった。
エレンは22の時に上京し、以来ずっと家を離れていた。

「仕事は、よかったのか?」
「よくねーよ。戻ったら地獄だ」
「俺もだ」
「ははは」

可哀想にと、エレンは思う。この家の長男に生まれたからには、家を継ぐことが決まっている。若くから歩む道を決められて、そしてその役割を忠実にこなしてきた、自分よりずっと優れた兄。彼が、あえて自分の可能性を試そうともせずこの町に甘んじていることが、一人自由を許されたエレンには気掛かりだった。

だが、そうかと言って外に出たところで、終わりなき日常は目まぐるしくエレンを取り巻く。
ふとした瞬間に、こんな時兄貴なら、と浮かぶ程度には、リヴァイはエレンの人格形成に深く関わっている。良くも悪くも、エレンの人となりに彼は大きな影響を与えている。
とはいっても、こうして普通に会話ができるようになったのはごく最近で、思春期や青年期に生じた溝は今でもわだかまりを残しているが。

「………ペトラさんは」
「あ?」
「今日もきれいだったなー」

歩む道は決められても、歩む相手を自分で決めることができたのは、不幸中の幸いだろう。
許婚や見合いといった風習も残っていたが、そこまで若いリヴァイに押し付けようとする者はいなかった。
正確には、いたが、彼は今やこの霊園の下で蝉の子守唄を聴いている。

「よう、じーさん」

石段を登り切ると、二人は一際古い墓の前に立ち止まる。
三年前に他界した二人の祖父は、リヴァイが家を継ぐ前までは厳格で有名なこの家の当主だった。

「じーさん、兄さんのこと嫌いだったよなぁ」
「ああ。口うるさく言われたな。エレンが長男だったらよかったのにって」
「兄さんは、どっちがよかった?」
「……てめぇに、あの家の家長が勤まるとは思えねぇ…」
「だよな」

顔を見合わせて、同時に吹き出す。
お互い、丸くなったものだ。
土台に乗り上げ、箒で枯葉を掻き集める。柄杓で水をかけ、それでも汚れは落ちなかったため、借りてきた雑巾を兄が絞る。
そういう仕事は、本来潔癖なのだから弟に任せればいいのに、兄は地味な作業が嫌いではなかった。
古い、大きな家はそんな兄のおかげで掃除が行き届いているし、エレンが家長だったらそうはいかなかっただろう。

「うまくやってるみたいだな」
「ん?……ああ。ペトラさんとアニ?」
「ああ」

この夏、エレンが妻を実家に連れてきたのは、彼らの結婚式以来だった。
うちは田舎だし、兄夫婦とは歳が近い訳でもないし、退屈だぞと念を押したが、そんな心配は杞憂に終わったようだ。
見た目は真逆の二人だったが、おととい顔を合わせてからすっかり意気投合し、今朝も早くから和気あいあいと、親族に振る舞う夕食の下拵えをしていた。
リヴァイは、きっと美人な女性を選ぶのだろうと思っていたが、案外柔らかで純朴な女性を選んだ。対称的にエレンが選んだのは、鋭い印象の気の強い女性だった。どちらかというと、リヴァイにはアニが、エレンにはペトラが似合うように周りには見えるらしかった。やっぱり、自分にはないものを求めるのね、と母親には笑われた。

「兄さんはさ」
「あ?」
「ガキ、作らねーの?」

新婚と言っても差し支えないエレンとは違い、結婚してからそれなりに経つリヴァイは、集まりのたびに口を揃えて浴びせられる紋切り型の質問に機嫌を損ねたようだった。

「てめぇまで、急かすな」
「はいはい」
「作らねぇ訳にいくか。跡継ぎが欲しいんだろ。どいつもこいつも」
「あ、まさか出来ねぇの?」
「…そうじゃねぇ」

リヴァイが墓石の上から水をかけると、飛翔が飛んだのかエレンは冷たいと抗議をする。
古くなった花を捨てて、空の花瓶を濯いで戻す。この日差しなら、墓石に浴びせた水は、すぐに乾いてしまうだろう。
後ほど親族が揃った時に、再び水を注ぎ花を差す形式的な儀式を滞りなく行うために、二人は準備を整えた。きっとその時は、当主のリヴァイは立って胸を張るだけで、せせこましい小間使いをこなすのはエレンになるのだろうが。
額の汗を拭う。足元を影が舞ったので見上げると、鳶が森の上で悠々と弧を描いていた。










蛍が見たい、と子ども達が余計なことを言い出した。連れて行ってこいと母親に言い付けられれば、それにも二人は逆らえず従う他なかった。祖父が亡くなってから、ますます気性が荒くなった母親を見て、血だな、とリヴァイが呟くと、エレンは黙って頷いた。
家長とはいえ年若いリヴァイは、家族ぐるみで付き合いをしている有力者達の間では使い勝手のいい若人にすぎない。年配者たちが酒を飲み交わしている間、面倒な子ども達のお守に体よく追い出されてしまったのだ。夜も更けてきたので蛍を見ながら、ついでに一人ずつ家まで送り届けて来いとの言いつけだった。

「クソ、あの狸じじい共」
「おいおい、聞かれるぜ。ガキ共に」

前を走る三人の子ども達は、夏のたびに集まる親族の孫達だ。赤ん坊の頃から知っている彼らは、りっくん、えっちゃん、と、大人たちがふざけた時にするのと同じ呼び方で二人を呼んだ。こんな時間に出歩けることが嬉しいのか、大声をあげながらはしゃいで畔道を行ったり来たりする。

「おい。川に落ちるなよ」
「落ちても助けないからな」

二人が、同じような声色でそう言うと、子ども達は「おじさん達、そっくり」と言って笑う。

「「誰がおじさんだ」」

そう、二人の声が重なって、どっと子ども達が笑い転げた。見た目は似ていないと言われてきたが、ふとした瞬間に血の繋がりを指摘されて、なんだか歯痒い気持ちになる。笑った顔がそっくりだとか、電話の声を間違えられたりだとか。
半月の静かな夜だった。来週には、夏祭りがある。町の至る所で、祭用の赤い提灯がぶら下がっていた。祭があるから来週までいればいいのに、とリヴァイは言ったが、仕事があるからそういうわけにはいかないとエレンは断る。
じーさんも、どうせなら来週死んでくれればよかったのにな、と兄がまた嫌味を言った。その言い方が祖父にそっくりだったのはあえて口に出さなかった。祖父や母の気性の荒さは、間違いなくこの兄に受け継がれている。

「ねぇねぇ、おじさん。蛍いないよ」

子どもの一人が、エレンの裾を引っ張った。

「んー?ほんとだ。いねぇな」

澄んだ川の畔で目を凝らす。しかし、夏のたびに町を飛び交う夜光の虫は、今夜に限って姿を現さない。

「いねぇ」
「………」
「蛍、いなくなっちまったの?」
「そんなはずねぇよ。去年までいたぞ」

二人は水面をじっと眺めるが、川の流れに半月が揺らいでいるだけで、蛍は一匹も見ることができなかった。
しんとした夜に、遠くで大人たちの笑い声がする。屋敷で、親族たちが縁側を開け放って酒盛りをしている声がここまで届いているのだろう。がっかりと肩を落とす子どもたちを連れて、二人は畦道を戻っていった。











「そういえばお前、あの川に落ちて大騒ぎになったことがあったな」
「兄さんが助けてくれたんだよなー」
「裏の木に登って、降りられなくなったこともあったな」
「兄さんが一緒に飛び降りてくれたんだよなー」
「二人で捻挫したな」
「松葉杖ついて学校行ったよなー」
「覚えてるか?あの神社」
「隠れ家にしたよなー。神主さんにめちゃくちゃ怒られた」
「縁の下に、よく隠れたな」
「かくれんぼ、ほんっと兄さん強かったよなー」
「てめぇはいつも、ワンパターンなんだよ」
「俺が家出した時も、いつも兄さんに見つかってたなー」
「ほとんど遊び場に隠れてたからじゃねぇか」
「高校の時に見つかったのには、さすがに驚いたけど」
「俺は高校生にもなって、弟が家出したことに驚いた」



そう、くだらない思い出話をひそひそと続けて、ふらりと二人が神社に立ち寄ったところまでは、いつも通りだったような気がする。子どもの頃に秘密基地にしていたそこは、昔と変わらない様子で二人を迎えた。翌週に控えた祭のために、明かりの灯されていない提灯が並んでいる。懐かしくて、エレンが賽銭箱の隣に腰を下ろす。少し遠くなった川の緩やかな流れを聴きながら、「蛍、なんでいなくなっちまったのかなー」ともう一度ぼやいた時だった。

「あのさ」
「ん」
「この状況、なに?」
「さぁな」

隣に座るかと思った兄が、エレンの真正面に立ち、手をついて、身を屈めて、首を傾げ、目を瞑る。突然縮まった兄の顔を、エレンは至近距離から凝視する。唐突に触れた唇の感触に目を丸くしていると、しばらく見つめあってから、そのまま後ろに押し倒された。木の床板がギシリと鳴った。

「………兄さん、酔ってる?」
「お前こそ」
「……ペトラさんは」
「…お前こそ」
「………うん」

エレンの腕がリヴァイの首に回されたので、それを了解と受け取ってリヴァイは弟の首筋に顔を埋める。互いから汗の籠った匂いがした。

今日は昼間から来客のもてなしに奮闘していたため、肌はべたべたと汗ばんでいて、ぷちりぷちりと釦を外されるたびにエレンは、潔癖症の兄に申し訳ない気持ちになった。しかし、不思議なことに嫌悪の念は抱かなかった。

「兄さん」

リヴァイが、エレンの首筋に舌を這わす。汗の味。柔らかくもない、男の身体。
うっ、と色気のない声が上がった。夏の夜にこんなところで情を交わすには、虫が出そうで嫌だったが人通りはなさそうだ。

「ひっ…」

リヴァイの手が、服の中に侵入し、エレンは耐えられずに小さく声をあげる。

「声、我慢しろ」
「む、むりだって…」
「しょうがねぇな」

そう言ってリヴァイの舌はエレンの唇を割り、絡め取るように深く口付ける。
吸いつくように口内を愛撫されて、服の中をまさぐる手にエレンは身を委ねた。撫でまわす手つきは性急で、身体をよじりぞくぞくと背中から背徳感が押し寄せる。

「ん……、に、さん……だめだって」
「何が駄目だ。駄目なら、先に言え」

リヴァイにも余裕がないようで、ビュッと勢いよく音を立ててベルトが抜かれる。順に服を剥かれていくこの過程は、一つ一つ隠していた秘密が月の下に暴かれていくようで、エレンは羞恥に目を瞑る。
怖い。けれども心のどこかでは、兄と身体を重ねるがごく自然なことであるように錯覚していた。そうすることが、呼吸をすることや、立って歩くことと同等の権利であるかのようで。
リヴァイが好きだった。どうしようもなく。
兄の湿った舌は、日本酒の味がした。











理由なんてないなー。
揺さぶられながら、冷静にそう思った。兄を好きだというのに、ちょうどいい理由が見つからない。理由だけは、遠い昔に置き去りにしてしまったのかもしれない。

「んっ……、んぁ……あ……」
「声、我慢できねぇのか?」
「し、してんだろ……あ、あう…」
「できてねぇ」

ずくん、と熱い滾りに後ろから身体を貫かれて、エレンは身体を支えている縁の柱に必死にしがみ付いた。腰を固定されて、躊躇うことなく奥へ進められたそれは、エレンが思っていた以上の硬度を保ち続けている。にも関わらず、挿入は思いのほかあっけなく果たされてしまい、今では熱い腸壁がまるで本来の役割であるかのように快楽を貪っている。
素肌に当たる夜風が、蒸し暑い熱帯夜の情事をなんとか耐えられるものにしていた。エレンに触れている兄の身体は、焼けるように熱くなっていて汗が滴り落ちていたが。

「ひっ、ぐっ……、あ、あ…!」

内側の、弱いところを狙って抉られれば、下半身の血液が沸騰して、全身に歓喜が巡る。長いこと一緒に暮らしていて、何もかも知り尽くしたつもりでいた兄の、抑え切れない欲情の気配を背中に感じて胸の奥が締めつけられた。求めていた、という自覚はなかったが、ずっと昔からこうなることを望んでいたのかもしれない。

「あ、…に、いさ……」
「……エレン」
「あ、あ、俺、もう、だめ、い、く、……」

エレンの、ようやく立っていた両足が、がくがくと成すすべなく痙攣し、折れて膝を突きそうになる。絶頂が近いと踏んだリヴァイが、それを許さずに後ろから更に激しく揺さぶってやろうとした時だった。

ワンッ

近くで犬の鳴き声がした。

「……ッ!?」

こんな夜中に、誰かが近くを通っているようだ。エレンはびくりと身体を震わせた。静かな闇に紛れて、こつり、こつりと、人の足音が近づいてくる。

「う、わ、…誰か、来た……」
「………」
「……ッ、に、さん、今はやめ、て」
「…………お前、今…」

兄が、小さな声で何か言い淀んだ。わけがわからず後ろを振り返り、同じく小さな声でエレンが先を促した。

「な、に……」
「…………すげぇ締まった」

そう、兄の声が恍惚と耳元で囁くので、エレンは嫌な予感に口元をひくりと引き攣らせる。犬が吠え身体が跳ねた時のことを言われているのだと、すぐにわかって闇の中で顔を赤くした。

「おま、最悪」
「声、我慢できるな?」
「やめろ、馬鹿か、馬鹿かアンタ、馬鹿やめろ」
「聴こえるぞ」

片手で唇を塞がれて、再び律動が開始される。容赦なく抉られる感覚にエレンは声を必死で抑えた。人の、砂利を踏みしめる音がより近付いて気が気でなかったが、それでもリヴァイはやめなかった。
犬の甲高い鳴き声が、こちらに向けられている気がした。
気付かれている、かもしれない。
こんな時間に出歩いているなら、間違いなくこの町の人間だし、町の人間であるなら確実に顔見知りだ。
もし、こんなところを見られたら。もしも、それが自分たちだと知れたら。
恐怖心から、身体がぎゅっと萎縮する。それをねじ伏せこじ開けるように、リヴァイが中を行き来する。

「……ッ、……――――ッ!」

引き摺りだされる生々しい感触に、エレンは声にならない声を洩らす。意思に反して、内側の肉が硬直を繰り返し、兄のそれを何度もぎゅっと締め付けてしまう。そそり立つ兄の形がはっきりとわかり、またその締め付けの度に兄を悦ばせているのかと思うと、羞恥で頭に血が上った。

「……ッツ――――、んぁっ!」

リヴァイの指が、エレンの胸元を掠めた。柱に爪を立てて耐えようとしたが、つい声をあげてしまう。近くを通る人間に聴こえてしまったのではないかと、心臓がばくばくと鼓動を速めた。
動揺したエレンの耳では、人の足音は聴き取れなかった。

「我慢しろって。こんなところ、見られたいのか?」
「……ばか、か、………んっとに、やめ……」
「エレン」

リヴァイの手が、背中をなぞる。
耳元で囁かれたその声が、エレンの知る普段の兄からは想像出来ないほどの熱っぽさを孕んでいた。それを聴いたエレンの身体は、ますます兄を求めてびくびくと震え、両足から力が抜ける。再び胸の突起をこりこりと引っ掻かれて、敏感になった身体はビクンとひと際大きく痙攣し、欲望のままに後ろの男を貪った。

「ン――ッ!……ッ!あァッ―――!」

ぶるりと身体を震わせて、エレンは精を吐き出した。それと同時に、後ろにも熱い体液を放たれる感覚がした。

「あ……、はぁ……あ……」

力が抜けきり、柱に額を押し付けて、エレンはずるずるとその場にしゃがみ込む。しかし、繋がったままの上、腰を掴まれていてはそうもいかず、自然とリヴァイが上から覆いかぶさる形になった。
背中に唇を寄せられて、またひくりと背筋が仰け反る。
ぐしゃぐしゃになった礼服や、中に出された精液のことを、今は考えるのをやめてしまった。それよりも、やっと一つになれた充足感にじっと身を委ねる。結合部を抜き去られ、後ろからぎゅっと抱きついてくるリヴァイの肩を、弱々しい手でしっかりと抱き返す。無理な姿勢だったが、心地よかった。項から髪を掻き抱くようにすると、普段は涼しげな兄の首筋に、しっとりと汗が滲んでいた。
はぁ、はぁ、と、呼吸を整える音が、鈴虫の音と共にエレンに聴こえた。

「………いったな」

再び、ワンッと吠える犬の鳴き声が、随分と遠くに響いたのを聞いて、二人は顔を見合わせて笑った。










「ほっ、ほっ」
「あ?」
「ほーたる、こいっ」
「………」

半月は少しだけ傾いた。リヴァイは、突然聴こえた懐かしい歌に振り返る。
結局、蛍を見つけることはできなかったし、子どもたちを送るにしては随分遅くなってしまった。
まだ酒盛りを続けているだろう親族と、二人の帰りを待っているだろう妻たちにどんな言い訳をすればいいのか。リヴァイは首を捻りながら、よたよたと覚束ない足取りの弟に歩幅を合わせて歩く。
だがやがて、弟の歩みがあまりに遅いのに痺れを切らして、リヴァイは右手を差し出した。

「ほら、手、出せ」
「……なんで」
「遅ぇからだろ。引いて歩いてやる」
「やめろよ。ガキじゃねぇんだから。それに、おっさん二人が手つないで歩いてたら、不審者だろ」
「いいから」

有無を言わさず、リヴァイはエレンの手を掴む。不満げな顔をした弟は、しばらく指を絡ませた後で、それでもぎゅっと握り返してきた。少し無骨な、しっかりとした男の手だった。虫の音がこだまする夜の町を、家々の灯りを頼りに二人は屋敷への家路を急ぐ。

屋敷が近づくと、自然と足が重くなる。屋敷に戻れば、リヴァイはあの家の当主で、エレンは別の女性の夫だった。
次はいつ会えるのか。このまま、兄弟でいることが出来るのか。
そんな不安を押し殺していると、再びエレンの能天気な歌が聴こえた。

「ほっ、ほっ、ほーたる、こいっ」
「うるせぇ」
「あっちの水は甘いんだっけ?」
「こっちの水は苦いんだろ」
「そうだっけ?つか苦い水って何?」
「知るか」

夜風が吹いて上弦の月が雲に隠れた。闇はさらに深くなったが、それでも蛍の姿を見ることはできなかった。










ルルルル、と音を立て新幹線のドアが閉まる。

「エレン、こっち」

指定券を持った妻が、後ろで手招きをしていた。きょろきょろしながら自分の座席を素通りしたエレンが、慌てて近付いて腰を下ろそうとすれば、先に荷物を棚に乗せるように言われ、乗せると今度は切符だけは出しておくようにと指示が飛んだ。アニは本当に、細かいところによく気が付く。
今朝は、兄夫婦への挨拶もそこそこに屋敷を後にした。昨日の今日では、まともに顔なんて見ることができない。
新幹線は指定席だったが予定より早めに家を出て、妻と二人で馴染みの駅前をぶらぶらと歩き回った。知り合いにも会った。みんながみんな、隣のアニを美人だと褒めた。小学校からの悪友は、エレンの妻にしておくのはもったいないと嫌味を言った。

「確かにな。俺にはもったいないかもな」
「何が?」
「ん、別に」

ふっと、義姉の顔がよぎった。彼女も、兄にはもったいないかもしれない。朝食の時、「もう少し家にいればいいのに」と名残惜しそうな顔をしたペトラとは、目を合わせることも出来なかった。優しい義姉を裏切ってしまったことが、今更罪悪感として重く圧し掛かる。

「東京に着くのは、夕方か」
「そうね」
「駅弁、買っとけばよかったなー」
「………エレン」
「ん?」

ゆっくりと、新幹線が動き始めた。家々が後進を始めて、見慣れた景色が通り過ぎていく。

「お兄さんと、何かあったの」
「………」

突然、核心に触れられてエレンは言葉に詰まった。何が?とか、兄貴がどうした?だとか、いくらでも言葉は紡げたかもしれないのに、まっすぐで力強いアニの目に真正面から捉えられると、言うべき言葉を失った。まるですべて見透かされたようで、喉はカラカラに乾き、水を被ったように身体が冷える。
夏の休日、新幹線は比較的混み合っていて、車内は騒がしかった。近くの席では親子連れの、まだ小さな兄弟が早くも追いかけっこを始めていた。
二人の間でしか交わさない、真摯な沈黙が続く。
誤魔化しきれないし、嘘をつき通す自信はない。
ペトラに感じた罪悪感は、なぜかアニには感じなかった。罪悪感は、あくまで他人に抱く感情で、これはエレンとアニとの問題だ。
観念してエレンは、全てを打ち明けることにした。

「…………アニ、俺な」
「うん」
「兄貴が好きだ」
「うん」
「………兄貴と寝た」
「うん」
「………」
「それで?」
「………」

怒るだろうか、軽蔑されるだろうかと身構えていたエレンは肩透かしをくらった気分だった。意味が通じなかったのだろうか、とも思ったが、そういう訳でもなさそうだ。
アニは涼しげな顔で、もう一度エレンに話の先を急かした。

「ねぇ、それで?」
「それでって……、それで終わりだけど」
「なんだ。そんなこと」
「そんなことって、お前……」
「バカじゃないの?」

呆れた、というようにアニは、売店で買った炭酸水の蓋を開けた。パシュッと小気味よい音がして薄い唇を飲み口に付けると、彼女の白い喉が鳴る。口をぱくぱくさせているエレンを見て、ふーっと一息ついて、また呆れたような顔をした。

「そんなこともわからなくて、アンタたちの嫁が勤まると思ってるの?」

新幹線の窓の遠く、エレンの実家が見えた。今なお古くからの慣習に囚われ続けているその家は、監視するかのようにエレンを見送っている。それを気にも留めずにアニは、付き合い出した頃からエレンにだけ見せるようになった、子どもっぽい悪戯な表情で笑う。
兄への気持ちが、彼女にはとっくにばれていたことに、そこでようやく気がついた。エレンだって昨晩、リヴァイに抱かれてやっとのことで思い至ったばかりだというのに。
途端に気が抜けて、エレンはずるずると座席の背もたれに沈み込んだ。

「お前、ずっと気づいてたのか?」
「もちろん」
「………まさか、ぺトラさんも?」
「もちろん」
「………」

敵わないな、女には。
今頃、リヴァイもペトラに同じようなことを言われているのかもしれない。
知らなかったのは当の本人たちだけだった。自分たち兄弟が、どうしようもない愚図だと思い知る。この聡明な妻たちはとっくの昔に気が付いていて、とうに腹を括っていたというのに。
結局エレンもリヴァイも、この二人の女性に許されて生きるしかないのだろう。


――今日も、新幹線をご利用いただき、誠にありがとうございます――


そんな、車内のアナウンスが聴こえて、アニの手がエレンの膝に添えられる。何度か行き来するその手が妙に力強くて、昨晩のリヴァイの掌と重なった。
急に喉の奥が絞られるように熱くなって、エレンはたまらず、膝の上のアニの手を掴む。泣き出す直前の、独特のその痛みがエレンを襲うのは数年ぶりのことで、騒がしい車内でひとり声を押し殺す。
缶に冷やされて冷たくなったアニの手は、泣いているエレンをあやすように、さらさらと何度も彼の手を撫でるのだった。



小説TOP
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -