鋼鉄の眦



眼前の蒼の中、多様な色彩をもったいきものたちが鱗をひらめかせながら泳ぎ過ぎてゆく。魚名板と照らし合わせ、あれはウメイロ、ハナフエダイ、ミツボシクロスズメ、ヤツバカワリギンチャク、そうして夜の空に瞬く星座にするように指を指す。多角的な観覧を可能にする、容量のとても大きな大水槽で泳ぐ回遊魚を観るのは水槽が最も綺麗な早朝が望ましいのだそうな。天井も透明にして、まるで海の胃袋のような通路をゆく。水温や光、圧力など諸々を管理されたアクアリウムの深海生物は元来光の届かない処で生まれ、海に還る。深海は生物に、更には微生物にまで極限を強いる。光合成は水深数十メートルまでの暗い海域で、独特の身体構造或いは生活様式の獲得を要する。地上のいきものたちと、退化でなく特殊化として在り様を違えた深海魚は特殊な環境を作らなければならなく、浮上に追従する減圧や海水温の上昇、光や捕獲に対するストレスに視覚や生理調節機能へ支障をきたす。五層に分かれた深海は、三層目からはもうはや暗黒の区域となるのだから。淡い人口の光を浴びて頬も青白くさせ、兄が何処からか仕入れた知識で教える。


もうすぐ兄は、光はあれど音のない世界に身を移す。

難聴といえども聴力によって聴覚障害レベルは幾つかある級ごとに異なり、また伝音性難聴、感音性難聴、混合性難聴に分かれる分類、残された聴覚による声音の明瞭度、そして起因した疾患。兄リヴァイはとある日前兆なく恒星が降ってきたふうに、中途失聴者となった。音声言語は獲得してあれど音声コミュニケーションは難しい。己自身が発声したものが聴こえないことは不便で、面倒に思ったらしく手話や点字、読唇術などのコミュニケーションツールよりもスマートフォンに文字を表示させることをよくする。疾患したのは特発性両側性感音難聴で、繰り返す進行型の、それも両側が極めて高度の難聴となる。耳鳴りを随伴する、慢性期の治療方針が定まらず、治療薬の有効性が現代でも実証されていないそれは睡眠の不足、喫煙、遺伝的なもの、後天性または外的因子などの関連を否定せず原因は不明に留まる。事故で両の親を失った兄は再び聴覚までも失う。物珍しい、バツのわるそうな顔をしたリヴァイが定期的な診察に付き合えと言外に示しながら、診察券を渡してきた。





何度も往復し慣れた帰路の電車の中、リヴァイがスマートフォンの液晶画面に表示した水族館にふたりきりで来館していた。社会人と学生のそれぞれの身分の休日が合致する休日はよく混雑している。聴覚を失うということは、普段ならば聴き取って避けられる危険に反応出来ないということでもあり、外出の際にそれなりに神経を使う兄にとって、不特定多数の人々が集まる此処は要らぬ疲労を溜めてしまうのではないだろうかと、誘われて真っ先に尋ねた。だけれど兄は首を振り、まだ微かに音のある今、出掛けたいのだと無機質な液晶画面に映す。兄の目よりもこの画面を専ら見つめることが多くなったと思い返して、少しだけさみしい。

少しずつ、音のない世界に潜水してゆく言葉少なくなったリヴァイは、よく物言いたげに目を合わせる。もしかしたら発症する以前よりもよく此方へ面を向ける。親を失くしてふたりきりの肉親で、離れることなく暮らしてきた己らだけれど、言葉が、口調が、声音がなければ些細な遣り取りでさえ満たされない。双子はテレパシーが出来るだなんてことを聴くけれど、兄弟ならば尚のこと、近くて深い溝が横たわる。ともすれば水槽越しのような遣り取りは非常にもどかしく、酸素が足りないかのように、唇を動かすだけの風景が見えるリヴァイは一層歯痒いのだろう。努力を断念して、我慢を習慣にして、舌上の言葉を飲み干した末、諦めたふうに合わせた目線を自ら外す。たったそれだけを幾度も繰り返せば、その分だけ己と兄の間にあるガラスは厚みを増した。通じるツールで表示された魚名板には、感情を当て嵌める言葉の数は不釣り合いであるのに、省けるだけ除いた言葉を兄は打ち込む。己は音もなく水中に泡となって消えた感情たちを見送る。水槽の中には、此方とあちらを繋ぐ電話も設置されていない。

珊瑚や熱帯魚を囲う水槽のある一帯を通過し、水辺のいきものたちを眺め、回遊魚たちが悠々と群れ泳ぐ様を観覧し、照明も控えめな個水槽が多く並ぶ深海魚の通路を、歩調を緩やかにして歩いてゆく。来館者の内最も静かな観覧をしているであろう、常からして賑わいを煩わしく感じるリヴァイであったけれど、いつしか音が恋しくなるであろう兄を想う。賑やかな世界を想って、懐かしむ兄はどのような表情をしているのだろう。寂寥を滲ませるだろうか、もう聴きたくない言葉を聴覚しないことに安堵するだろうか、兄の声を聴くのが久しくなってさみしそうにする己の面を見せられて、仕方のない顔をするのだろうか。

一時一時毎に組まれる短い文は、意味が的確に、簡素に伝達出来るよう余分な部位を削ぎ落としている。頭の回転が速い兄は有能で、扱いを心得た同期や部下、上司に恵まれている。寧ろ働き過ぎであると休みをとらされていて、こうしてゆるり、時間に縛られることもなく出掛けている。次の休日には、また何処かに誘われるのだろうか。

己のスマートフォンに、伝えたい言葉を要領も不格好に打ち込んでリヴァイへ示した。

『ね、今度は夜の海へゆこう』





*





最期に聴く、弟エレンの言葉、声音は遠くないいつかに聴くことになる。発症する以前の常でさえ、清廉な兄としての振る舞いを阻むかのような顔をするのだから、これ以上いとおしくてたまらない気持にさせるのはいかがなものか。己は存外、時折手際が些か不器用ながらも上手に飼われていることを、恵まれていることを熟知している。当人よりもひどく狼狽する弟を見れば、心が凪ぐのも不思議ではない。両親を失ったちいさなこどもの前では完璧な兄であろうとしてきた。一見神経質な性質に見せる兄が、実の処ものぐさな面もあることをエレンは知っているだろうか。正しく在ることは難しい。強く在ることは案外容易い。道標を失い易い仔羊が、暗がりで迷わないようにと足元を照らし、頭上で輝くような恒星であらんとして。燃え尽きるその一瞬間前までを眩く在ろうとしてきた。一度繋いだ手を離さないで、見返りを求めないままに、確かに慈しまれていると思い知らせて。

今、エレンは己から離れようとしている。絡めた指を振り解こうとしている。それはやさしさからくるものなのだろう、頑なな性質であるが、注がれるものを感受することを拒まないこに育った。己がひとりになりたいと願うのは、まだ遥か先の話になる。背を向けて逃げるのかと、目を瞑って口を噤むのかと責め立てるのはあまりよくはない。前にそのような拗れた喧嘩をした後で得た教訓があった。声が届かないならば、当然更に遣り取りは拙くなる。だけれど、だからこそ。張り上げなければならない声が、言葉がある。


「俺から逃げるな、エレン」





*







すっかり聴こえなくなってしまってから、すきだと、いとおしいのだと言おう。返答を初めから求めていない告白を終え、すきだすきだと囀るこころを持て余したままの日々に戻ろう。


そうしたらいつかの最期にはもう、ふたりで手を繋いだまま、黙して海へと還るだけ。水中の泡沫たちは、きっと、頑なな己らの眦を解しながら、目の醒めるような藍に融けてゆく。



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