おかしい。
最近、どうも弟の様子がおかしい。
話しかけても上の空だし、そうでなくてもぼーっとしてる時間が増えた。
何より、兄の俺が言うのもアレだが、妙な色気が出てきたような……あ?キモい?蹴られてぇのか。
この間も、そういえばシャンプーが切れかかっていた事を思い出して、浴室にはエレンがいたが別に兄弟で気にすることもないだろうと思い、ノックしてすぐにドアを開けたのだが。
『エレン、シャンプーが…』
『!? 入ってくるなよ変態!』
と叫ばれ、顔面にシャワーを浴びた後ドアが閉められるという出来事があった。
その時は弟にぞんざいな扱いを受けたショックが大きくて気にしなかったが、今思えばその恥らう様子と言い、久しぶりに見た細くしなやかな肢体と言い、それはもう例えるなら男を知ってしまった女のような……は?考え過ぎ?バカ言え普通だろ。
「ちょっと出掛けてくる」
そう言って玄関を出ようとしたエレンの、シンプルで品のいい腕時計のはめられた手首を掴んで、その場に留めた。つーかこの時計も何処で手に入れたんだ。コイツに渡してる小遣いでどうこう出来る代物には見えないが。
「ちょっと、って格好じゃねぇな。正直に言え」
下ろしたてのシャツにジャケット、細い脚のラインがすっきりと際立つパンツに磨かれた靴。どう見ても近所のガキ共と遊びに行く格好じゃねぇ。
「買い物に行くだけだよ」
「そんなめかし込んで何処にだ?」
「……ったく、内緒にしたかったのに。兄さんもうすぐ誕生日だろ?だから、」
ちょっといい店に入ろうと思って。
照れたような、むくれたような表情でそう呟いた弟を見て、俺は反省した。こんなにいじらしく振る舞うコイツを疑うだなんて、疑心暗鬼になっていた。
俺は財布から札を数枚抜き取ると、エレンのパンツのポケットにねじ込んだ。
「わ、何だよ」
「持ってけ」
「要らねえよ、それじゃプレゼントにならねぇだろ」
ははっ、とおかしそうに笑う弟の髪を片手で撫でつけてやり、いいから持ってけと言うと、エレンは眉を下げつつも、大人しくポケットに押し込まれた紙幣を財布にしまった。
「サンキュ。でもこれじゃお遣いじゃんか」
「いいんだよ。ガキが余計な気回すんじゃねぇ」
ガキじゃねーし。
そう言ってエレンは俺の頬に口付けると、行ってきます、としっかり習慣付いた挨拶をして玄関を出て行った。
ドアが閉まるまでを見送って、ふうと一つ息を吐く。
思わぬ弟のいじらしい一面を見れた事もあって、ここ最近ぐだぐだと悩んでいた事など頭から吹き飛んでいた。
高そうに見えた時計だって、俺の杞憂だったのかもしれない。それにエレンだってガキとは言え、そう言った見てくれを気にし出してもおかしくない歳ではあるのだから。
そう思うと急に弟を甘やかしたくなり、帰ってきたら何かアクセサリーの一つでも買って待っててやろうかという気になった。
「…行くか」
善は急げ。
俺は薄手のコートを引っ張り出して、車のキーをポケットに滑り込ませた。
自分の選んだ物を前に、顔を綻ばす弟の顔を思い浮かべながら。
ありがとうございました、と店と同じく品の良い店員の声に送られてショップを後にする。手に下げた紙袋の中には、シンプルなチェーンのブレスレットが丁寧に包装されて入れられている。悩みに悩んだ結果、あの落ち着いた腕時計と相性の良さそうな飾り気のないものを選んだ。その分素材や品質がものを言うので予算から少々足が出たが、満足のいくものを買えたので良しとする。
用事も終えたし、夕飯の材料を買って帰るか。そう思ってふと車を駐めた大通りの向こう側を見やると、見覚えのある人影があった。
「エルヴィン?」
口に出してみて、やっぱりそうだと確信した。すらりとした長身に、カジュアルだが糊の効いたスーツを着こなし、豊かなブロンドをキッチリと纏めているその姿は人混みの中でも目立っていた。ついでに言うと、今日は仕事帰りではないのかいつもと違う車に乗って来たらしく、赤いスポーツカーというのは更に人目を引いた。
エルヴィンはあくまで会社の上司であり、何度か家に招いたり招かれたりはしたが、プライベートで声をかけるほど打ち砕けた間柄ではない。わざわざ挨拶をしに行くには通りを挟んでいるので、正直なところ面倒だ。
気付かなかったことにしよう。そう思って視線を外しかけたその瞬間、またもよく見知った人影が視界にチラついた。あれは、
「エレン…?」
ぼう、と見ていると、エレンはエルヴィンの腕に自分の腕を絡ませてぎゅっと身を寄せる。エルヴィンはスーツに皺が寄るのも構わずに、それを嬉しそうに見詰めていた。そのまま二人は近過ぎる距離を保ったまま、少し離れた路肩に駐めてあったエルヴィンの車に乗り込んだ。
どさり、と横で何かが落ちる音がしたがどうでもいい。こんな、こんな物を買って俺は何をしている。
何で、俺の弟が、俺の上司と、腕組んで……?
そこまで考えて、絶望的な予想を弾き出した頭を緩く振って思考を停止させる。そんなまさか考え過ぎだろう。まさか、そんな、アイツはまだ中学生だぞ…!
落とした紙袋を拾い上げ、ヨロヨロと車に乗り込む。そうだ、見なかったんだ何も。それより今日の晩は何にしよう。そこまで逃避しかかっていたその時、ピリリリリと携帯の着信音が車内に響いた。宛名は、エレンだった。
「……どうした」
『あ、兄さん?悪い、今日晩飯いらない。っていうか泊めてもらうから風呂とかも大丈夫』
「……に、だ…」
『え?何?よく聞こえないんだけど』
まさにキョトン、という効果音でも聞こえてきそうなほど無邪気な声色だ。しかし、ついさっき見てしまった光景が脳裏をぐるぐると巡り、縋ってしまいたくなる幻想が打ち砕かれる。
「何処に!誰と!泊まるんだ!!」
『ヒッ!』
驚きのあまりか、事がバレた事に対する焦りか、通話は一方的に切断された。すかさず掛け直すもすぐに留守電に繋がり、何度掛け直しても同じだった。こうなったら、とエルヴィンの携帯に掛けるも、こっちに至っては電源を切られている。何やってんだ仕事用だぞ、緊急の用事が来たらどうするんだ?と言うか電源まで落として何をするつもりなんだ俺の弟に、繰り返すがアイツはまだ中学生だぞ…!
まるで悪夢だ。
熱くなる目頭が、嫌でもこれは現実であると主張していた。