吹く風枝を鳴らす


隣の部屋の田中が、文を受け取ったと思ったら青ざめてすごい勢いで駆けて行き、何かあったのかと滝夜叉丸は心配をした。けれども彼がそのあと、けろりとした顔で帰ってきたために拍子抜けをしてしまった。

「何かあったのかと思ったではないか」
「いやあ、妹からの文にね、母の容態の悪化、と書いてあったから思わず即刻家に帰らねばと思ったんだが」
「何!それは家に帰らねばならぬだろう」
「いや、それがさ、早とちりだったんだ。走りながら読んでいて気がついたのだけれどね、見てくれよ、この後ろ」

滝夜叉丸は田中がズイと差しだした文を覗きこんだ。
“母上の容態の悪化もなく、元気にやっております”
すぐ下の行を見れば分かることである。なんて間抜けなんだ、と滝夜叉丸は呆れた。

「何故すぐ下まで読まない。阿呆め」
「あっはは。いやあ、失敗したよ」

駄目だねえ、と田中は笑った。いつもよりか心なしか明るい。母親の容態が悪化しておらずほっとしたのだろう、と滝夜叉丸は思った。

「ところで、ここに戻ってくる途中でジュネさんを見かけたんだけどね」
「何!それは羨ましい。今日もあの人は綺麗だっただろう。まあ私ほどではないが」
「綺麗だったよ。ちょうど洗濯物を食堂のおばちゃんに渡しているところでね。やはり異世界人と言うのは洗濯などやるものではないのだろうかね?」

そうなのだろう、と同意しようとして、滝夜叉丸は言葉を止めた。彼女が洗濯を自分でやっていないとは知らなかった。それと同時に、少しがっかりする。彼女の指先が美しいのは、どうやら天性のものではなく、水仕事をしていないからというただそれだけのことらしい。








「なにしてるの?」

綾部喜八郎は野菜を運んでいる田中を見つけて声を掛けた。手の桶のなかにてんこ盛りの野菜を乗せた田中は、喜八郎の声に挨拶を返した。

「野菜を運んでるんだ」
「それは分かってるよ。食事の手伝いは一年生に割り振られた仕事じゃないの。どうして手伝ってるの?」
「ああ、なんでもおばちゃんが忙しいらしくてね。手が回らないらしいから、自分から手伝うと声を掛けたのさ」
「忙しい?行事がある時期でもないのに」

喜八郎は首を傾けた。けれどそう言えば、食堂で見かけるおばちゃんはこのごろ、元気な声でいつもの台詞をあまり言わない。皆が食事を食べている間も、忙しそうに動き回っているか、ぐったりと疲れた様子で椅子で休んでいたりもしていた。

「いや、どうやらジュネさんの洗濯や、破れた服の裁縫や、部屋の掃除やらを全部おばちゃんがやっているらしくてね」
「全部?ジュネさんと言うのは裁縫もできないの?」

喜八郎は純粋に驚いてしまった。自分よりも三歳ほどは年上であろう女性が、まさか裁縫ができないとは。彼女はどこかの姫でもあるまいのに、異世界というのは一体どういう教育を施しているのだろう。

「おばちゃんが本当にやつれていてね。可哀想なんだ。喜八郎も暇なら手伝ってあげてよ」
「うん、そうするよ」

洗濯、裁縫、掃除。すべてをやらず、生徒ではないから授業も受けず、ジュネさんは忍術学園で何をして過ごしているのだろう。喜八郎はそんなことを考えながら歩き出した。








「おおい、斎藤!ちょっと手伝ってくれ!」

大声で呼ばれて、タカ丸はその声の主を見た。炊事場から顔をだした田中が手を振っている。炊事場に入ると、タカ丸は包丁を渡された。見回してみると、食事当番の一年生と、田中しかいなかった。もうすぐ夕食の時間だと言うのに、食堂のおばちゃんの姿がない。

「おばちゃんは?」
「ああ。実はさ、おばちゃん倒れたんだ」
「ええっ!大丈夫なの?」
「新野先生がおっしゃるにはただの疲労らしいからね。だが今日は大事をとって部屋で寝ているよ」
「疲労…?そういえば、ジュネさんの身の回りの世話を全てしていたらしいもんね」

このごろぐったりとした様子だったおばちゃんをタカ丸はよく覚えていた。どうしてジュネさんは自分でやらないのだ、という疑問がタカ丸の友人たちの間でも交わされるようになってきている。

「ということで、野菜を切ってくれないか。黒古毛先生を今から呼んでいたのでは間に合わないから、急遽生徒で作ることになったんだ」
「それは構わないけれど……。そうだ、おばちゃんが倒れたのはジュネさんの責任でもあるんだし、彼女にも手伝ってもらったらいいんじゃないかな?」
「いや…。彼女は包丁も満足に扱えないらしいからな。居ても足手まといだろう」
「そうなんだ…」

包丁も扱えないなんて、と思いながら、タカ丸はジュネさんの長くて綺麗な髪を思い出していた。驚くほど美しいその髪がタカ丸は大好きだったし、その髪の持ち主であるジュネさんのことも好いていた。
けれど、彼女が包丁も扱えないと言うのは聞き捨てならない。彼女の美しい髪は、他の人々がいろいろなことに努力を重ねていたときに、他の人の倍以上の時間を掛けて、手入れをしていたからそれだけなのだろうか。
だったら、とタカ丸は思った。確かにジュネさんの髪は美しいし、さらさらだけれども。それには何の価値もない。

そして、おばちゃんが倒れた原因がジュネさんなのだとしたら、彼女に必要なのは護衛などではなく教育だろう。あんな、護衛は必要ないのではないだろうか。
兵助君に聞いてみようか。タカ丸はそんなことを考えた。




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「真面目で仲間からの信頼の厚い四年生一人を、急な家の用事で学友に別れを告げる暇もないまま休学させることに成功。すぐさま六年生のくのたまが変装して潜入を開始し、功を奏しています。潜入した六年生が忍たまの四年生へ一谷ジュネの矛盾した言動や貴族のような暮らしぶりについての情報を流し、忍たま四年生は少しずつ一谷ジュネとの距離を広げています。また、五年生の一部が疑問に思い始めた様子。六年生は依然と変わりありません」




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