能無き鷹は牙をむく


「何も分からなかった。便利な言葉ね」

前にもジュネさんは似たようなことを言った。何も分からなかった。何も知らなかった。その言葉が免罪符になると思っているのだ。
私はジュネさんの前に座り込んだ。忍たまたちには背中を向けて、ジュネさんと彼らのちょうど間の位置に陣取る。
そして、自分の懐に手を差し入れ、無機質な物体を取り出した。

これが何かわかるでしょう?
私はそう言って、ジュリさんに向かって携帯電話を転がした。

彼女は私が投げた携帯電話に眼をやって、それから大きく目を見開いた。おそるおそる転がったそれに手を伸ばすと、触ってその感触を確かめている。私が投げた携帯電話は色あせ、メッキははがれ、また真中は何かに貫かれたように大きく穴があいて壊れてはいたものの、原形をとどめたまぎれもない携帯電話だった。

「けー、たい…?」
「そう。それは携帯電話。それは、私のもの。そこまで言えば、どうしてそれがここにあるのかがわかるでしょう」

本当は私の母親の物で、幼い私は使わなくなったそれをおもちゃにして遊んでいただけだった。けれど今はそんなことは関係無い。それがここに存在することが、重要だった。

「それは、なんだ…!?」

警戒するように七松が呟いて、私は安全なものよ、とだけ返した。電波も電気もないこの世界ではそれはただの鉄の塊だ。武器にするとしたら人に投げつけるくらいのことしかできないだろう。彼女は震える瞳で私を見た。その目から涙はいつの間にか消えていた。


「緑子ちゃん、も、私と同じ世界の人なの…?!」

彼女の言葉に誰しもの視線が私に向けられていた。くのたまの視線さえも。今まで誰にも話していないことだった。
私は平静を装って、器用に怪しく笑って見せた。驚愕の視線。それを綺麗に無視する。私はもうあの世界は捨てた。私はこの時代の、この世界の、ひとりの忍なのだ。

「そうですよ。そしてその真中に大きな穴があいているのが分かります?私を山賊の薙刀から守ったときにできた傷です」
「え…?」
「私がこっちに来たのはまだ八歳のとき。今のジュリさんのたった半分の年齢。私は気がついたら山の中にいましたけどね。あなたみたいに忍術学園の近くなどではありませんでした。人気のない、電気の存在しない世界の真っ暗な山の中です」
私はそう言いながら左腕を服の袖から脱いだ。素肌を露わにして、しっかりとジュネさんに見せつける。

「この傷が見えますか?まるで腕に四つ、穴があいているみたいでしょう。山の中で、私が一番初めに出会った野犬が私に噛みついた時にできた傷です」

成長とともに傷跡も広がり、黒みがかった紫の穴のようなグロテスクな跡が腕には四つ残っていた。私はあの時の恐怖を覚えている。足を滑らせて川に落ちなければ、あのまま喰い殺されていたのだろう。

「これのせいで腕の神経が少しおかしいんですよ、今でも左手の小指と薬指は上手に動きませんから」

そう言って私は左の掌を握って開いてとして見せた。小指と薬指は、不自然な位置で止まってしまう。そのまま私は服を脱いだ。前掛けだけの姿になると、後ろにいる忍たまたちから息をのむ音が聞こえた。私はぐるりと回転してその背中を彼女に主張させる。
「この背中の傷が見えますか?これは三回目に山賊に襲われた時の傷です。この跡は一生消えません。あの時の背中の痛みも、私は一生忘れません」

背中の傷は、右の鎖骨部分から左側の腰部分まで赤黒い紐の模様となってしっかりと私の背中に張り付いていた。なんてひどい痕なのかとくのたまの友人は見たとたんに青ざめていた。それにこの傷を負って生きていたのは幸運だとも言っていた。
このときは、たまたま近くの村の自警団が見回りをしていなければ私は息絶えていただろう。

「私はあなたと違って、人気のない山の中にいました。野犬に二回襲われ、山賊に三回襲われました。私はまだ八歳でしたから、自分の状況なんてすぐには呑み込めませんでしたよ。母の姿を探しながら私は必死で歩きまわって、それでもどうにか生きようと必死でした。どんなに私が怖かったかが分かりますか?心細かったか分かるんですか?
山賊に見つからない様に、野犬に見つからない様に、息をひそめて山の中を歩き回って、喉が乾いたら泥水を啜って、母親を探して三日三晩歩き続けた私のことが、あなたにわかるの!?」


私はいつの間にか自分の声がひどく荒くなっていることに気が付いていた。こうして話していたら、彼女への妬みが心の中でどろどろと渦巻きはじめていた。これは実習なのに、落ちつかなければいけないのに。心の奥のそんな言葉はどんどん薄れていく。



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