「あっれー?タッキー一人?」
「一人で悪いか。それにタッキーと呼ぶな」

滝夜叉丸が教室で一人読書をしていたところで、目の前に座ったのは人参甘子だった。いつの間にかつけられたあだ名は何度言っても止められることはない。いつも笑いながらごめんねー、と心のこもっていない謝罪をし、次に会うときはまたタッキーに戻っていた。そんな甘子を滝夜叉丸は嫌いではなかった。クラスの中でも避けられがちな自分という人間に臆することなく声をかけてくる存在は稀有だった。

「喜八郎と一緒な気がしてたんだけどなあ。勘が外れちゃった」
「…それで、何の用だ?」

滝夜叉丸が本を閉じて顔をあげると、甘子は嬉しそうに笑った。それを見て滝夜叉丸も少し気を楽にする。彼女はこういうことがうまい、と滝夜叉丸はいつも感じていた。私と話す体制になってくれるんだ、嬉しいな、なんて言葉が聞こえてきそうな笑顔を、彼女は惜しみなく振舞う。彼女が万人に好かれる理由はここにあるのだろうと滝夜叉丸は思った。彼女は自分が他人からどう見えるのかを知り尽くしている。そして他人が一番喜ぶ方法も知っていた。それが分かっていても滝夜叉丸は彼女に安心感と好意を抱くことができた。甘子がその行動を、悪意を持ってしているのではないということが分かっていたからだ。

「特に用はないけどね。暇だったから、滝夜叉丸と喜八郎と話そうと思って」
「そうか。喜八郎はさっき先生に呼ばれていった」
「そうなの?何だろーね。ねえ、滝夜叉丸何読んでたの?」
「源氏物語だ。新しく翻訳されたからな」
「そうなの?私も読んでみようかな。葵上が好きなの」
「そんなこだわりがあるのか」

古典は好きだから。滝夜叉丸は誰が好き?そんな問いをされて、滝夜叉丸は考えたことがない、と答えた。目の前の彼女は飛びぬけて頭がいいわけではなかったが、古典だけは得意だったことを思い出した。それは喜八郎にも言える。彼は勉強を全くしなくとも、いつも古典では甘子と上位争いをしていた。甘子が滝夜叉丸の手元から本を取って、最後に乗っている人物相関図を開いて見せた。その中の一部分を指さす。

「紫の上は嫌い。可哀想な人だけれど、あんなに愛されてずるいから」
「よくわからないな」
「はは、まあ、嫉妬みたいなものかな?だって他の、源氏の君に恋した沢山の女の子が可哀想じゃない?」
「けれど結局は紫の上だって、藤壺の君や桐壷の更衣の代わりであったかも知れないじゃないか」
「それでも、表面上は一番だったでしょ?だいたい登場の時のセリフから嫌いなの。『雀の子を犬君が逃がしつる。伏籠のうちに籠めたりつるものを』なんて、いかにもお嬢様って感じで」

甘子が頬を膨らませながらそう話すのを聞いて、滝夜叉丸は話よりも他のことに驚いていた。開いているページは、人物相関図のそれだ。

「甘子。お前、源氏物語を暗記しているのか?」
「え?まさかあ。心に残ったセリフだけだよ」


甘子は本を滝夜叉丸に返した。もうその話題には興味を失ったのか、にこにこと笑いながら滝の今日のご飯は何?だなんてくだらない話を始める。
滝夜叉丸は不思議でならなかった。二人の関係が、二人の性格が、二人に好意を抱き、なぜか懐かしいと思っている自分が。
そしてそんな滝夜叉丸を見て、何もかもを悟っているかのように人参甘子は笑うのだ。