破面の軍団の登場。それは衝撃的な出来事で、ほとんどの人間の意識は今、唐辛よりもそちらに向かっている様だった。けれども日番谷にとっては、それよりも、大切な幼馴染が人質という立場に取られていることの方がずっと重要な事実であったから、唐辛から目を逸らすことはなかった。
そんな日番谷に何を思ったのか、唐辛は苦笑いをして、日番谷隊長、と呟いた。

「…………雛森を、そこから出せ」
「人質を逃がしたら、隊長は私に攻撃なさるじゃないですか」
「あたりまえだろう」

裏切り者のくせに、未だに自分のことを隊長と呼び敬語を使うのも意に介せなかった。逆に馬鹿にされているようにまで感じるのは、こうして雛森を盾にしている目の前の女に怒りがこみ上げているからか。けれども自分の大事な人間を盾にされて、怒りに歯を食いしばらない人間などいるものか。
唐辛は未だに刀を抜くことさえせず、戦闘態勢に入る雰囲気はまるでないようだった。しかし、それはあまりにも疑問を抱くことだ。どうして藍染は、自分の部下である彼女がこうして戦わず、敵と話していることを咎めないのか。

「…………藍染と、恋仲なのか?」

思わずぽろりとでた言葉は、素直に行きつくところだった。綾瀬川の推測は最もだと思えたが、しかし、それだけでは藍染が戦闘を許さない理由にはならない。それどころか、弱みをつかって戦わせたっておかしくないはずだった。
それをしないということは、こっちの方がずっとしっくりくる。

「まさか!」

けれども返ってきたのは、強い否定だった。まるであり得ないという様子で、彼女は笑うように言った。

「そんなことであったのならば、雛森五番隊副隊長はもっと傷つくのでしょうね」

傷つく、と言う言葉に一瞬、そうであったなら雛森を躊躇なく殺すと言う意味なのかと思ってぞっとした。けれども、そうでは無い。雛森が、藍染に恋仲の人間がいたらもっと心を痛めると、唐辛はそう言いたいようだった。
日番谷にとって気持ちの良い話題ではない。話を変えるように、日番谷は言った。

「何故、裏切った?」
「…………説明するのが、難しい、質問ですね」

唐辛はううん、と考えるそぶりをしながら頭をひねり、ちらりと横にいる少年を見た。唐辛の横に佇むセスタは、会話など興味なさげに違う方向を向いていた。というよりも、市丸の裏切りが意外であったらしく、食い入るようにそちらを見ている。
そして、何を思ったか。唐辛はするりと、腰に下げている刀を抜き。そして、雛森の首筋に当てた。



「雛森五番隊副隊長の命は私の手の中にある。この命を助けたいなら、ソウルソサエティを裏切りなさい」


それは唐突に訪れた危機だった。唐辛の口調は敬語ではなく、一瞬のうちにまるで敵と味方だと言うようにきついものとなっていた。
唐突すぎる出来事に頭の中は真っ白になり、そして唐辛に怒りが浮かんだ。それから、危機感の無かった自分の阿保加減を思い知った。唐辛は敵なのだ。いくら彼女が口では危害を加えないと言ったからといって、それが嘘であった可能性はいくらでもある。


「さあ、どっちを取るの」


唐辛がこの戦闘で初めて抜いた刀は雛森の首筋にしっかりとあてがわれていた。喉が一瞬でカラカラになり、周りの時間が全てどこかに消えたように頭の中がシンとしていた。
唐辛は、睨むような目つきだった。どっちを、どっちを。さあどっちを。唐辛の声が何度も頭にリフレインする。
そんなものは、選んではいけないものだ。もともと天秤にかけてはいけないものだ。けれど、選ばなくてはならないのか。

「早くしないと、時間オーバーでお終い」

唐辛の手首がゆっくりと動く。雛森の首に一ミリ一ミリ、少しずつしかし確実に向かっていく。待て、と声を出す暇さえ惜しかった。どうすればいい。この、この状態をどう回避すればいい。わからない。自分の顔が見る見るうちに冷たくなっていくのが分かった。血液の流れが、顔から引いていくその脈が音を立てていた。

「5、4、3……」

カウントが、まるで死刑宣告のように日番谷に迫っていた。やめてくれ、という声が喉まであるのに、それを言う暇もない。
どちらを選ぶ。どちらを。どちらも欲しいという贅沢な答えしか浮かばない。けれど、どちらかを選ばなくてはならないのだ。雛森の死か。自分の裏切りか。俺は。俺は、俺は、俺は――――――!



「なんて、ね。冗談ですよ、日番谷隊長」


するりと、唐辛は刀を鞘に戻した。
日番谷には、一瞬彼女が何を言ったのか分からなかった。それでも数秒掛けてやっと言葉の意味を理解すると、体中から力が抜けていくのが分かった。何時の間にか止めていたらしい息を吐きだすと、安堵で力が抜けてしまいそうになった足をなんとか支える。
てめえ、と唐辛に怒鳴ろうとした時、けれど先に口を開いたのは唐辛だった。


「簡単に言えば、藍染が私に言ってきたのはそういうことです。私は、迷うことなくルピを選びました」


先ほどまでの緊迫感が嘘のように、唐辛はいつも通りの敬語だった。

「裏切るという行為に、罪悪を感じなかったわけではありません。藍染とソウルソサエティと、どちらが自分の中で正しい行いと言えるのかと言えば、それは紛れもなくソウルソサエティでした。けれど、私の一番大切な人はソウルソサエティにはいません。ソウルソサエティでは生きていく事さえ許されません。平隊員の私には、ソウルソサエティに対する責任など殆どありません。だから私は弟を選び、裏切りを選んだのです」

そう断言した言葉を聞いて、先ほどの、唐辛が京楽隊長に言った言葉が蘇った。

「姉弟、と言ったな」
「はい」
「お前の、大切なものとは、それなのか」
「はい。前に私が話したの、覚えていて下さったんですね」

少しだけ、嬉しそうに笑いながら唐辛が言った。裏切り者の女の優しい瞳は、愛する者を眺める誰とも劣らない、美しいものだった。それを見て、日番谷は何も言えなくなる。
代わりにと言葉を紡いだのは唐辛だった。

「日番谷隊長がどちらを選んだのかは知りません。けれど、日番谷隊長が、雛森五番隊副隊長を大切にするのと同じなのです」

唐辛はそこで一度言葉を切った。こちらに意識など向けていない、少年のほうを嬉しそうな顔で見る。そして、日番谷の方に向き直った。



「私にとって、彼以上に大切なものなどないのです」