私のクラスは3−Z。私はそれが嫌で嫌で嫌で堪らない。
一年生のときはC組だったし、二年生のときはA組だった。私は問題児じゃないし、成績も普通だし、運動神経だって人並み。真面目に過ごしてきたのに、何故か三年生になっていきなりZ組に飛ばされた。
普通の人がZ組に入る確立なんて、“全校生徒−(マイナス)問題児”分の3くらいの確立。まさかそれが私になるなんて思いもしなかったし、想像したくもなかった。仲の良い子は皆違うクラスで、始めのうちは一緒にご飯食べようね、なんて優しく言ってくれたけど、こんな風に隔離されたみたいに遠くの場所にある教室で過ごしているうちに、彼女達と過ごす時間なんてほとんどゼロに等しくなってしまった。

クラスの子はやっぱりほとんど問題児で、悪い人たちではないとは思うけれど、やっぱり馴染めない。授業中にケンカしたり、騒いだり、もうめちゃくちゃ。そもそも担任だって最悪だ。一風変わった国語教師は、どれだけ騒いでいても本気で怒ったりはしない。
だから私はどんどん授業をサボるようになった。最低限の単位が取れる時間を計算して、こっそり図書室に忍び込んで、一人で勉強をする。そのほうがずっと有意義な時間だった。私は大学に進学したいと思っていたし、行くなら、名前を書いただけで入れるような馬鹿な所はごめんだ。

そして今日も、朝のホームルームが終わると私は静かに席を立って教室を出る。一度外に出てから、授業中は鍵が閉まっている図書館に窓から忍び込む。始めは罪悪感でいっぱいだったこの行為も今では慣れてしまった。
 カリカリと図書館で鉛筆を動かす。数学の問題は好きだった。解けない問題も多いし数学を一人でやるのは辛いものがあるけれど。それでも試行錯誤しているうちに時間は過ぎて、一日の終わりが早く来るような気がしていたから。
今日は一日全てを図書館で過ごすつもりで、私は昼放課までずっと数学の問題を解き続けた。出来ない問題も、たくさんある。答えを見て、自分とは全く違うやり方であることにショックを受けて、そしてそのやり方を頭に叩き込む。絶対に自分のやり方でも解けるはずなのだけれど、途中でどうやって進めば良いのか解らなくなる私は、先生に教えてもらうという行為が無いために答えに頼るしかないのだ。

休み時間に質問に行ったこともあったけれど、授業には出ないくせに、と遠まわしに嫌味を言われてからは行くこともできなくなった。打たれ弱い私は、その数学の先生がいっぺんに怖くなってしまったのだ。



お昼のチャイムがなった。いつもだったらすぐに弁当を食べるために図書館の外にでるのだけれど、今日はいつも以上に問題が解けないことが悔しくて、そこでそのままペンを動かし続けていた。

悔しい、のだ。

私一人の力なんて全然ないような気がして、Z組に入れられた私はもう学校の教師達に見放されているような気がして。目の前が滲んで、私はなんてくだらないことで泣いているのだと自嘲した。
人が来始めた図書室でごしごしと目をこする。すると、誰かが私を呼んだ。


「あれ、佐藤さん?」


そこにいたのは男の人だった。学ランを着ているから生徒で、前髪が長めで、本を持って立っていた。見たことがあるような気もしたけれど、知らない人だ。どうして私の名前を知っているのだろう、と首をかしげた。

「誰?」

私がそう聞くと、目の前の彼はショックを受けたような慌てたような顔をして、私に向かって言葉を紡いだ。

「あ、いきなりごめんね。同じクラスの山崎退だよ。俺影薄いし、知らないよね」

そうか、同じクラスだったのか。もう三年生になってから二ヶ月ほどもたち、こうして同じクラスの人が自己紹介をするのはおかしいことなのだろうと私は頭の片隅で思った。特にZ組は、三年間ほとんどクラスメイトが変わらないのだから。

「あなたが影薄いんじゃ無くて、私がクラスの人の名前も顔もほとんど知らないだけだよ」

謝ってもらっても困る。そう言うと、山崎君は少し驚いた顔をした。けれど何も言わずに、そっか、と呟いた。私はどちらかといえばクラスメイトに存在を認識されていたことに驚いたのだけれど、何故か勉強もしないくせに授業にだけはしっかりでるZ組の人々を思い出して納得した。
彼らから見れば、私が変な子なのかもしれない。

「それ、数学?」

目の前の山崎君はにこりと優しく微笑んで、私の目の前に置いてあったノートを指差した。彼にとっては、きっと気まずくならないための会話だったのかもしれない。けれどその言葉は私の心を動揺させた。山崎君が話しかけてから忘れていたさっきの悔しさが込み上げる。そうだよ、と呟くと、山崎君はまたにっこりと笑った。
「授業よりもずっと進んでる。佐藤さんすごいんだね」

その言葉に私はうつむき気味だった視線をぐいっとあげて、山崎君の瞳を見つめてしまった。そんなことを言われたのは初めてで、いったいどうしたらいいのか分からなくなる。山崎君はそんな私に気付かず、授業で今やっているところはずっと前のページだよ、と言っていた。きっと授業はほとんど進んでなどいないのだと、私にはすぐに検討がついた。
山崎君はそんなふうに私に向かって語りかけてくれているときもずっと微笑んでいて、その笑顔はびっくりするくらいに柔らかくて、私は心の中がくらくらと揺れていた。

「わたし、全然、凄くなんて無いよ。一人でやっても、解けない問題ばっか…」

話している途中で、鼻の奥がツーンとして、瞼の裏がじわじわと熱くなってきて、そしてすぐに私の目の前はぼやけてしまった。え、わ、佐藤さん!?山崎君の焦ったような声が聞こえてきて、私はすぐに俯いた。
机の下で握り締めた拳にぽとぽとと水が落ちて、そして私の意志とは裏腹にそれは止まらなかった。私はなんて弱いのだろう。きっと山崎君は、意味の解らない私の行動に呆れてしまっただろう。
そんなことを考えていたら、がたりと椅子が引かれる音がして、山崎君が私の正面に座ったのがわかった。彼がいたらきっと涙が止まらないことがわかっていた私は、そんな彼の行動に酷く困惑し、どこかに行って欲しい、なんていう失礼な願いを頭の中で唱えた。手の甲でごしごしと瞳をこすり、どうにか涙を止めようとしていると、山崎君が口を開いた。

「でも俺はやっぱり、佐藤さんは凄いと思うよ」

――だって、一人でもどうにか解こうと努力してるじゃない。


そんな言葉が耳に飛び込んできて、私の涙はもっと溢れ出してしまった。それを見て山崎君がまた、謝った。私はその謝罪に、必死で首を横に振って否定する。
違う、違う。この涙は、悔しいんじゃない。数学が解けないことが嫌なんじゃない。

――山崎君が、言ってくれたことが、嬉しいのだ。

ありがとう、何とかその言葉を搾り出して、ぼやけた視界で山崎君を捕らえると、山崎君は焦ったような不安そうなそれでいて優しい笑顔でやっぱり微笑んでくれた。山崎君は優しい人だね。そう続けると、彼は今度こそ焦ったような顔になって、そんなこと無いよ、と否定した。

私は何も知らなかったのかもしれない。Z組になった瞬間にそのクラスがどういうクラスなのかという噂を思い出して、自分の目でろくに確かめもせずにクラス全てを嫌っていた。
クラスメイトは問題児ばかりだと思って疑わなかったし、そこに自分が入ることなど出来るわけがないと勝手に決め付けていた。でもそれは周りの勝手な憶測で、本当はこうして私の目の前にいる山崎君はとても優しい人なのだ。
ゆっくりと引っ込んでいく涙を感じながら、私は山崎君に精一杯笑って見せた。涙のあとの笑顔なんて、そんなに可愛いものでもないだろう。それでも私は精一杯笑って見せた。すると、山崎君はやっぱり柔らかい笑顔を返してくれた。

きっと私は、彼に恋をするだろう。そんな確信が心の中に現れて、そして彼の優しい笑顔を見て、私は涙で滲んだ数学の教科書をゆっくりと閉じた。