長編、企画 | ナノ

未来に向かって



合宿から帰った私はしばらくモヤモヤとしていたが、一旦考えるのはやめにする。
だっていくら考えたってアレが誰で何でしたのかなんて解らないし、誰かに聞くなんて絶対にできない。
それにこのままでは悶々としながら夏が終わってしまいそうで。

といっても、夜ベッドに入れば否応なしに考えてしまうんだけど。

不思議なことに驚きすぎて怒りはないけれど、アレが私の初めてのキスであることは紛れもない事実だし、どうせなら岩泉くんにされたんだと思い込もうとしたけれど、恐れ多すぎて無理だった。
だからといって他の誰かとも思うのだって有り得ない。

結局私は、あの合宿所の隣にある教会に通う外国人の子供が間違って敷地に入り、寝てる私を起こすために挨拶がわりのキスをしたんだと思うことに成功した。


そして私は及川くんに宣言した通り、私の夢について考え始める。
お父さんとお母さんが揃っている時に、自分の夢と進路について初めて相談した。

『私はスタイリストになりたい。』

今までも憧れてるとか、服が好きだからやりたいなーなんて軽い感じで話したことはあるけれど。
こうしてハッキリとした形で告げたのは初めてだった。

普段はニコニコしている優しい父が、顔を少しだけ歪める。

「…厳しい世界だぞ。キレイなだけじゃない。下積みだって大変だ。」

私は一つだけ大きく頷く。
それを見て両親が顔を見合わせてから「わかった」と言ってくれた。
できることは協力してくれる、とも。

そして夏休み中、父の会社の撮影現場やショーの裏方さんの仕事を見学させてもらった。
アシスタントさんは常に走り回っていたし、どう見ても理不尽なことに怒られてる時もあった。

今まで何もしてこなかった分、知らないことや知らなければならない事がたくさんあった。
服の見せ方だけでなく、色や柄の掛け合わせ、布の素材の特徴、季節感や光の反射具合など。
これから大学や専門学校に行って習得する内容もあるけど、自身で先にやっておくべきこともたくさんある。

私はそれでいくとかなり恵まれた環境にいるはずだ。
こうして近くで現場を見れたり、情報や実際の服にも触れられるし、父の書斎には今はもう絶版になっているような専門書がたくさんある。
今まではデザイン画や読みやすい本は見せてもらっていたが、専門書を見るなら英語やフランス語の勉強だって必要だ。

協力はしてくれるからと言って父も母も仕事で妥協するような人達ではないから、少しでも邪魔なところにいると容赦なく怒られたし、知りたくない世界も目隠しせずに目の前に突きつけられる。
結局は自分の力で夢を叶えろという両親からの有難い叱咤激励だった。


そうして急に慌ただしくなったけど充実した夏が終わり、新学期を迎えると教室は笑顔で溢れる。
久しぶりの声と黒く日焼けした顔。

『おはよー…。』
「おはよう!跳子ちゃん!」
「久しぶりー!わ、やっぱりちょっと焼けたねー!」

少し緊張しながら扉を開けた私もすんなりとそこに溶け込めて、思わずホッと安心する。
長期休暇が明けて学校が始まるのが楽しみだったのは久しぶりだった。

教室をそっと見回してみても、岩泉くんも及川くんもまだ来ていないようで。
あの合宿以来久しぶりに会えると思えば、すごく嬉しいのになぜか変な汗をかいてしまいそうになる。

(アレは、挨拶。外国の子。バレー部の人じゃない。)

心で呪文のようにそう繰り返していたら、ガラリと扉が開いてあの大好きな低い声が耳に入ってきた。
眠そうで、それでいて心地よく響く低い声。

「はよす。」


唇に一瞬、熱が甦った気がした。


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