7存在証明



 エレンが任務に就きかれこれ9日。遭難してから早一週間が過ぎようとしていた。
 救助は3日経って来なければ絶望的。これはリヴァイの言であったが、その絶望的な状況もとっくに過ぎ去ろうとしている。

 食料と水、寝床の問題に関してはほぼ解決していた。
 幸い二人ともこういった野営に関する訓練は受けていたし、森の中は狩り場としては絶好の場所だった。
 森の獣達は今まで外敵が少なかったためか警戒心が非常に薄く、簡単な罠でも容易く捕らえることが出来る。
 また今が比較的温暖な季節なだけあって、森の木々には豊富な果実がたわわに実っていた。外の世界ではやれ食糧難だ口減らしだと奔走しているのがまるで嘘のように食料は豊富だ。
 当初懸念していた巨人の襲撃もエレンたちが初めに遭遇した5メートル級が最初で最後だった。
 いくら人の数が少ないとはいえ、外壁でならば既に感知されてもおかしくない日数が経過している。今のところここに巨人の脅威はないと判断していいだろう。

 この通り、これからも救助を待つ備えはある。
 しかし肝心の救助は本当に来るのだろうか。口に出せば不安を煽るだけなので敢えて意識しないようにしてきたが、これはエレンの心の奥で燻っていた疑惑だ。
 それが今時間の経過と共に次第に表出しつつある。

 焦るエレンとは対照的に、この件に関してリヴァイは何も言わない。先に述べた見解以上の意見を口に出すことなく、ただひたすら生き抜くことだけを考えているような節があった。
 そんな彼の態度が、エレンには非常にもどかしく焦れったかった。

 どうして今すぐにでも山を下りるよう命じてくれないのか。

 確かに麓まで下りる道のりは散々探索して、それでも未だに成果はあげられていない。しかしここでこうして漫然と救援を待っていても事態は何も解決しない。
 無事に麓まで辿り着ける可能性が限りなく0に近くとも、エレンにとってはこうして洞穴の中で燻っていることの方が耐え難い状況だったのだ。

 だからやはりというべきか、最初に口火を切ったのはエレンだった。

「兵長、俺に提案があります」

 意を決したエレンはリヴァイに向かい合う。
 洞窟に壁に腰を掛けて替え刃の手入れを行っていたリヴァイはそんな自分を眉一つ動かさず見返した。動揺も感心も示さない温度の低い視線にあてられて、エレンは若干たじろぐ。その冷静さはあたかもエレンがそう言い出すことをあらかじめ予見していたかのようだった。
 言葉に詰まるエレンの動揺を察したのか、リヴァイは手にしていた替え刃を全てボックスの中に収める。几帳面に手入れを施された刃には指紋一つなく、鋭利な刃の一本一本が持ち主の心を表していた。

「……言ってみろ」

 無駄のない動きで全ての武器を収納し、改めてリヴァイはエレンに向き直る。
 粗野に見えてこういった律儀な側面は彼の美徳とされるところだ。一体この世の誰が自分のような得体の知れない化け物にここまで殊勝な対応をしてくれるだろうか。
 嘲るのでもなくおもねるのでもない。彼はあくまで対等な関係として自分と接してくれた。

「もうここで露営を行ってから一週間。最初に兵長がおっしゃっていたように、救助が来る可能性は低いと思います……でも、だからといってこのまま捜索を待つばかりじゃ事態は一向に改善しない」

 それは暗にリヴァイの傍観的な態度を非難するものであったが、彼は何も言わずにただ黙ってエレンの話に耳を傾けている。

「兵長も、本当は気付いているんでしょう? 俺にはこの状況を打開できる力がある。俺の、巨人化能力ならあの崖を越えられるかもしれない。危険だけれど、やってみる価値はあると思うんです」

 当然これはリヴァイも一番最初に考慮した方法だろう。しかし地盤の脆さから、成功する見込みは低いと判断され、今日まで敢えて言及されることもなかった考えだ。
 当初はエレンもそう考えていたが、しかし状況がここまで切迫してくる話は違う。もうすでに手段を選んでいられる場合ではなくなってきていているのだ。

「だから、」

 ただ一言命じて欲しい。
 死を賭してでもその力をふるえと。

 緊張にか戦慄にか。震える拳を押さえながらエレンは真っ直ぐにリヴァイの瞳を捉えた。彼の顔は相変わらず怒りとも呆れとも無関心ともつかないような変化に乏しい表情だったが、瞳だけは如実に彼の感情を物語る。
 僅かながらにその機微が読み取れるようになってきたエレンは、自分を写すリヴァイの瞳に批判や怒りの色がないことを悟った。

「エレンよ。これは前にも言ったことだが、俺にお前の意思を縛る権利はない。お前に傷一つつけないこと、それが俺の責務だが、お前が本気で願うなら俺は黙って頷くだけだ」

 好きにしろ。
 拍子抜けするほどあっさりと、言外にそう伝えたリヴァイにエレンの全身から力が抜ける。同時に胸の奥を突くような不可解な感覚が通り抜けるが、その正体には気付くことなくエレンは今一度拳を握り自身を奮い立たせた。

「ありがとうございます、兵長」
「感謝される謂れはまったくねえ」
「俺、必ず成功させますから」
「失敗したら這いずってでも下山するだけだ。いちいち気負うな」

 いかにも鬱陶しげな上司にそれでもエレンは礼を重ねたが、彼は片手を払って皮肉交じりに返す。
 その物言いがなんともリヴァイらしくてじわりと胸が温かくなった。
 どうして自分は彼の言動にここまで一喜一憂してしまうのだろう。
 先程リヴァイはエレンを縛るものは何もないと言っていたが、エレンの心は今大半がリヴァイのことで占められているような気がしてならない。
 こんなことではいけないと、自分の中の使命感がその気持ちを律するけれど、リヴァイの前で跳ね上がる鼓動はどうしても制御出来ない。
 そして彼の前で感じる何もかもがエレンにとっては初めての感覚なのだ。得体の知れない情動に混乱するエレンだったが、リヴァイは変わらず冷淡な瞳でエレンを映していた。



 まるで奈落の底だな。
 この世界はすでに地獄のようなものだが、実際そんなものを想像するとしたら目の前にある崖下を指すのだろう。

 切り立った崖の上から底の見えない闇を覗くと、エレンは何の感慨もなくそんな感想を抱いた。
 下から吹き抜ける強風に前髪が巻き上げられる。突風から身をかわすように数歩引いて、今度は対岸の岩壁を見つめた。
 そこは最初にエレンがリヴァイに助けられた岸壁の対岸だった。
 ゆうに数十メートルはある亀裂はどう考えても普通の人間の力で越えられる距離ではない。風の吹きすさぶ崖下は奥深く、先の見えない闇が落ちれば即死だということを否応なしに伝えてくる。
 まさに打つ手なしの状況だが、エレンの頭を支配するのはこの作戦をやり遂げるという信念だけだ。

 成功する確率は低いが、上手くやれば現状を打開出来る。
 どちらにしても絶望的なこの状態に終止符を打てるのならば、やってみる価値は十分にある。

 そう考えたエレンはじっと自分の掌を見つめた。
 崖の崩落を危惧して一度はリヴァイに止められたが、あの時と今では状況が違う。
 自分の巨人化能力。これを使えばリヴァイを向こう岸まで渡し、自身も崖を飛び越えることが出来る。
 巨人化して助走をつければ恐らく飛び越えることは自体は容易いだろう。しかし、ここの地盤がその衝撃に耐えてくれるかどうかは危うかった。
 軽く爪先を蹴り上げると土くれが脆く崩れる。崖のへりからぱらぱらと舞う粉塵が一層エレンの不安を煽った。

 リスクは高い。
 だがいつ来るとも知れぬ援助を待つ現状、エレンに講じうる打開策はこれだけだったのだ。
 反対はしないと、黙ってエレンを見送ってくれたリヴァイのことを思い出す。
 失敗しようがしまいが、彼はどんな結果であれエレンを肯定するだろう。今までもずっとそうだった。
 上司と部下として命令することはあっても、根本的な部分ではずっとエレンの自由を認めてくれていた。それがどれほど重大な選択であろうとも最後までその結果を見届けてくれた。

 そんなリヴァイを今度は自分が助けたいとエレンは心からそう思う。
 彼に救われてばかりの自分ではいたくない。彼を支えたい。彼の優しさに報いたい。その一念が今のエレンを突き動かしていた。

 崖から50メートルほど後方に距離を取る。到着地点である彼岸を見据えて、エレンは掌を噛み切った。



 日が翳り、空には曇天の雲が立ち込めて、次いで控え目な雨音が地面を叩き始めた。
 ぽつぽつと子供の戯れ程度に響くその音は次第に激しさを増していく。リヴァイは洞穴から曇天の空を見上げた。
 エレンの提言した作戦の危険性からリヴァイは一人ここで待機を余儀なくされていた。
 馬鹿な部下が出ていった洞窟内はいつもより広く感じられ、自分がいつになく感傷的になっていることを自覚する。
 お前は部下との距離の計り方を間違えている。心の中の声なき声が自身をそう責め立てるが、リヴァイはそれを一笑に付した。

 そんなものはもう本当に今更な話だ。

 いつか死に行く部下の生き様から目を逸らすか逸らさないか。とうの昔にリヴァイは選んでいた。自分は彼等の痛みに目を瞑らない。その痛みが悲しみが、今の自分自身を形作っているのだから。
 それはあの未熟な新兵にも言えることだった。
 エレン・イェーガー。
 彼の数奇な人生からその全てから、リヴァイは片時も目を離さないことを誓っていた。
 始まりはエレンが捕らえられた地下牢での邂逅。あの時リヴァイはまだ二十歳にも満たない訓練兵に怪物の影を見た。
 巨人への憎悪と限りない生への欲求。ひどく淀みながらも爛々と光る目は人類の怒りを体現しているかのようだった。
 リヴァイが何かに戦慄を覚えたのはあとにも先にもその時だけだ。そしてその瞬間心に決めた。
 この少年の嘆きも怒りも全て、見定め見守り続けることを。

「……強くなってきたな」

 早くなる雨足にぽつりと呟き、リヴァイはおもむろに立ち上がる。そろそろ作戦の成否が出ていてもいい頃合いだ。
 乱れ打つ豪雨に躊躇することなく洞窟を出たリヴァイは件の断崖に向かって歩き出した。
 エレンの巨人化には凄まじい衝撃と轟音が生じる。いくら距離が離れていたとしても彼が巨人化すれば必ず感知出来るはずだ。
 しかしエレンが出て行ってから今まで外には何の異常もみられない。それの意味するところをリヴァイは知っていた。

 整地されていない獣道を掻い潜り、雨でぬかるんだ地面を踏みつけ、ようやく目的の場所に到着する。
 崖下から少し離れたところに蹲る少年の姿があった。
 降り落ちる雨から身を庇うことも忘れ、呆然とこちらを振り返るエレンの顔はまるで捨てられた子供のように頼りない。
 そこにはかつてリヴァイを呑み込まんばかりの気迫を見せた化け物の面影はなかった。

「……兵長」
「別段、期待はしていなかった」

 口元に残る夥しい血痕と両手に付いた無数の傷。痛々しいまでのそれが彼の得た成果の全てだった。

「巨人に、なれません」

 自分の掌を焦点の合わない瞳で見つめて、エレンは悲痛な声を上げた。

「何度も試したのに。俺はたしかにあの崖の向こう側に行きたいって願ってるのに。でも、なれないんです」

 滴り落ちる水滴が掌の傷口を洗い流すが、それでもエレンの出血は止まらない。余程深くまで噛み切ったのだろうと察したリヴァイは舌を打ち、力の抜けた彼の腕を引き寄せた。
 身に付けていたクラバットを剥ぎ取り、2つに裂いたそれを包帯代わりに傷口を止血した。応急措置だがないよりましだろう。
 ぐるぐると布で巻かれた自分の手をエレンはぼんやりと見つめる。心ここに在らずといった部下の様子にリヴァイはこのままでは埒があかないと判断し、とにかく一旦洞窟に戻るためエレンの腕を引く。

「兵長、すみません」
「言っただろう。別に期待なんかしちゃいなかった」
「でも、俺が巨人になれなきゃ、一生このまま……」
「エレン」

 強く咎めるような口調で彼の名を呼ぶ。
 びくりと震えたエレンの顔色は明らかに悪く、一刻も早い休養が必要だと思われた。

「本当に悪いと思ってるなら今は歩け。謝罪も弁解もあとで聞いてやる。そうじゃなきゃ、また俺に担がれるか?」

 脅しではなくむしろそちらの方が本気で手っ取り早いかと思った。しかしエレンはそれを聞いて黙って項垂れる。彼にとってその方法は心底遺憾だったらしい。
 また迷惑を掛けたくないなどと余計なことを考えているのだろうか。
 つくづく馬鹿な子供だった。



 


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -