マイフェイバリットスィングス





そいつは強い風に乗ってやってきた。窓辺に降り立ち「お邪魔しまーす」と軽いノリで、でも靴をきちんと揃えてあたしの部屋へと入ってきた。おいおい勝手に入ってんじゃねーよとあたしはおもったがそいつがはにかむように笑ってみせたのでなんだかなにもかもどうでもよくなって、あたしは座布団を敷くとまあお茶でもどうぞと言った。一人暮らしのあたしの家に客人は少ない。あたしはおしゃべりは大好きだが他人とのコミュニケーションはすぐに億劫になってしまって長続きしないから一人の生活はあたしにぴったり、だけど時々は淋しくもなる。だからそいつがやってきたことはすこし、うれしくもあった。人と話すのはとても久しぶりだ。そいつは真っ青なクセのある髪を風になびかせてあたしの向かいに座るといただきます、とあたしの出したベルガモットオレンジティーを口にした。あたしはいろんな果物を入れることによってカラフルに味の変わる紅茶が好きだ。まだ男をしらないまっさらな処女のような初々しい瑞々しさがあるとおもう。しかし男の口には合わなかったのか彼は顔をしかめた。オレンジは思春期の少女のふともものようなおいしさだとおもうのだが、このおいしさを理解できないとは、こいつとは趣味が合わないかもしれない。

今日はお話があってきました、と男は言った。なに?と紅茶をすすりながら聞き返すと男は「生涯の伴侶になってください」と言った。ここでお茶を盛大に噴出さなかったあたしを褒めて欲しい。あたしはティーカップを卓袱台の上に戻すと「まだ会って間もないというか初対面ですが…?」と至極まっとうな返事をした。「わかっています」と言ったそいつは男とも女ともつかない透き通った声をしていて、あたしはちょっとうらやましいなとおもった。あたしの声は野太いし、心は永遠の少女のつもりでいるのに身長は伸びる一方でもうそろそろ190pに届こうとしているし、腕なんかマッチョのそれだ。ムキッという擬音がとても似合う。かなしい、とてもかなしい。あたしは細くて可憐な女の子として涙を武器に生きていきたかったのに!青い男はそんなあたしの葛藤を余所に「僕は以前あなたにお世話になった者です。僕はそのときからあなたと一緒になりたいとおもっていた。だからこうして今ここにいます。もしよかったら僕と暮らしてはみませんか。僕料理上手いですよ」とさりげなく欲望とセールスアピールをしてきた。しかし、と思い返す。あたしにこんな知り合いはいただろうか。こんな芯まで青いうつくしい髪をした、気の弱そうにも見える眼鏡の男の子。出会っていたならきっとつよく印象に残っているはずだ。とりあえずあたしは「人違いじゃあないですか」と言った。野太い声が宙に舞ってきえる。こんなあたしを生涯の伴侶にしたいなんておもう男がいるなんて信じられない、すくなくともあたしならかわいい女の子にする。こんなオカマなんてやめておく。だっていろいろ大変じゃない、いや、手続きとかいらないからむしろ楽かしら。そんなことを考えていたら男は「僕の名前はリクです」と言った。リク!その名前には憶えがある。いや憶えがあるどころじゃない。

彼はあたしの住んでるマンションの屋上に立っていた。その現場に洗濯物を干しに来て居合わせたあたしは透明の彼を見てヤバイ、とおもった。生きる希望を失くすとどんどん色がくすんでいって体が透き通るというのを学校で習ったのをあたしはそのとき生きてきてはじめて思い出した。だって今まで透き通った人間というのに出会ったことがなかったから。みんななんだかんだ文句を言って発散して、透明になるまで抱え込んだりはしないのだ。きっとこの透明な人はとてもやさしいのだろう、だからこうして透明になってしまったのだ。誰にも言えなかったのだ。もろもろのいやなことを。あたしは洗濯物を抱えたまま、こうしちゃいられないと透明な人間を見つけたらどうしたらいいのかを思い出そうとした。そう、まず声をかける。そうだ声をかけなけりゃ。
「ちょ、ちょっとアンタ」
「…なんですか」
透明な人から透き通った声がすうと聞こえたことにまずは安堵する。よかった、話せるみたいだ。
「アンタ、名前は」
「リクです」
「リク、リクっていうのね、いい名前じゃない」
「…そうですか」
「そうよ」
「申し訳ないですけど僕今からここで死ぬので見なかったことにしてもらえますか。迷惑はかけたくないし」
「すでに迷惑はかかってるわよ。そんな心配するならあたしのためにうたいなさい」
「…うた?」
「そう、歌よ。きらい?」
「いえ、好きですが」
「なら歌いましょう、マイフェイバリットスィングスがいいわ、あなただって好きなもの、たくさんあるでしょ?」
「…サウンドオブミュージックですか」
「そうよ、いい?…レインドロップスオンロージーズアンドウィスカーズオンキットンズ」
「…ブライトカッパ―ケトルスアンドワームウーレンミットンズ」
「その調子!ブラウンペイパーパッケイジスタイドアップウィズストリングス」
「ジーズアーヒューオブマイフェイバリットスィングス!」
「あははは!ほらね、うたうとたのしいでしょ?つらいときはうたいなさい、オーケー?」
「…オーケー」
そう言うとリクはすこしはにかむように笑って見せた。顔がすこし見えるようになってる、透明じゃなくなってる。あたしはすこし安心するとその男か女かもわからないリクの頬にキスをした。
「いーい?つらくなったらうたうのよ。そうしてまだつらかったらあたしのとこに来なさい。このマンションの143階のDー7号室よ」

「…あったわね、そんなことが。3日前に」
「思い出していただけました?」
「アンタそんな綺麗な髪してたのね、気づかなかった」
「ハハ、透明でしたからね」
「それにしても3日で回復しすぎじゃない?」
「あなたのことを想ったらあっという間にラクになったんだ」
「…とんでもない告白だわ」
「付き合っていただけますか」
「アンタほっといたらまた死にかけるでしょ」
「かもですね」
「ほとんど脅しじゃない」
「脅してます」
「フフ、わかったわ、アンタみたいな子、きらいじゃないし」
「ありがとう」
「お礼はまだ早いわよ」
「でも言いたいんだ、ありがとう」
そう言って男は笑った。青い髪がきらきらと光った。開けっ放しの窓から強い風があたしの背を押すように吹いた。この部屋も模様替えしなきゃね、海のように青い髪がひときわ際立つように、とあたしは考えながら、リクからのキスを受け入れた。


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