甘美な食事(リゾット×プロシュート)
ひどく雨の降る晩だった。雨、というものがオレはあまり好きではない。はじめて人を殺した夜を思い出すからだ。いまさら、ともおもうが、意識と本能は比例しないもので、毎度ナイフで男の腹を掻っ捌いた感触を思い出す。神様、と祈った瞬間の心境を。その日もひとりやわらかな肉を裂き血でしとどに濡れた両手を思い出しながら、自分のあのころよりずっと大きくなった両の掌をソファにもたれて眺めていたら、ドアベルが鳴った。オレの家を訪ねてくる人間などほとんどいない。強いて言えば家賃を集めに来る大家さんくらいだ。だが大家さんはこんな夜中にはやってこない。誰だろう、とすこし警戒しながら外を覗くと見慣れた男がびしょ濡れで立っていた。「入れてくれ」というすこし枯れたハスキーボイスにドアーを開けるとプロシュートはさっきまでバーで飲んでたんだが帰ろうとしたら突然この土砂降りだ、まったくついてないぜ。と言って笑った。その笑みはオレのさっきまでの感傷を吹き飛ばし一気に現実へ引き戻した。タオルを持ってくる、ちょっと待て、と言うとああ、と彼は頷き、タオルを渡すと礼を言って乱暴に髪や服を拭い、家に帰る気にもならねえしどうしようか悩んでたらおまえの家が近かったことを思い出したんだ、それで寄った。迷惑じゃなかったら今夜休んでってもいいか、と彼は問うた。客人なんかめったにない、ぜひ休んで行ってくれ、と言うと助かる、と彼は言った。シャワーを使えと奥に案内してオレのしかなくてすまんが、一応穿いたことはないから、と下着を出した。部屋着も出さなければとクローゼットの中を漁ったがどれも彼には大きそうだった。これで我慢してもらおう、今は冬ではないのだし、とガウンを出した。シャワーを終えたプロシュートはガウンを羽織って現れ晩飯は、と聞いたオレにそれより酒が飲みてえ、と言った。さっきまで飲んでたんだろうと笑うと飲み足りねえ、と彼も笑った。
久しぶりに飲む酒は相手がいるからかいつもより美味く感じ、オレに軽い酩酊を与える程度には飲むペースを速めさせた。プロシュートは水か何かでも飲んでいるようにがばがばと飲んでいた。その様子は酔っぱらっているようにはまるで見えなかったが、それは「そう見えた」というだけでやはり彼に酔いを与えていたらしく「なあリゾット」と声をかけてきた彼になんだと返事をしようと目の前のソファを伺うとすでに彼はそこにおらずいつのまにやら隣に彼は座っており、蕩けた瞳で背中に腕を回して熱烈なキスをくれた。そして赤く色づいた唇で「仕事仕事でご無沙汰だろ、泊めてくれる礼をしてやるよ」とささやくように言うとふっと息を吹きかけて耳たぶを食んだ。普段のオレなら「やめろ」と断固とした態度をとったろうとおもうが、酒の力というのはすごいもので、オレは拒否するどころか積極的にプロシュートを受け入れた。涙の膜が海色の瞳を覆っているのがとても美しいとおもった。ガウンを脱いだプロシュートの裸の体が酒で赤く火照っていてそれがやけに色っぽく見えた。オレは導かれるままに彼に触れ、触れられて、そのうち眠りについた。
朝起きるといつのまに移動したのやらオレたちは衣服をリビングに置きっぱなしにしてベッドで眠っており、プロシュートのブロンドの髪が白いシーツの上で窓から差し込む光を受けてきらきらと輝いていた。昨日の土砂降りが嘘のような晴天だ。オレはそっとベッドを降りるとリビングへ行って衣服を拾い洗濯籠に投げ込み、新しい下着を出すとそれを穿いた。プロシュートの着ていた服が乾いていたのでそれをベッド脇に置き、さて、とこれからどうするかについて考えた。そして昨夜のことはとりあえず横に置いて、朝食の用意をすることにした。トーストにマーマレードジャム、ベーコンエッグにミニトマトあたりでいいか、と一人ならきちんとは食べない朝食のメニューを考え冷蔵庫からベーコン2枚と卵を4つ取り出した。ベッドのほうではシーツにくるまったなだらかな背から尻にかけてがしなやかに動いて重たげに頭を起こし、ぐんと伸びをして「あー」と無意味な音を発した。ゆっくりと体をほぐしていくプロシュートに「おはよう」とキッチンから声をかけるとちらと目線を寄越して「おう」と声が返ってきた。「完全に二日酔いだ、頭がぐわんぐわんしやがる」と言うプロシュートに「あれだけ飲めば当然だろう」と返して熱したフライパンにベーコンを置きじゅうう、と音を立てるそれに卵を落としていく。「何か手伝うことは?」と聞くプロシュートに「服を着てくれ」と言って食パンをオーブントースターにかける。 朝食はプロシュートがおぼつかない手つきで(寝起きの彼はあんなだったろうか、まるで幼子のようだ)オレが置いておいた服を着ているうちにできた。
プロシュートはまるで遠慮というものをしらないかのように豪快にジャムをトーストに塗りたくりかぶりついた。垂れたジャムを舐めとる仕草がなんとも悩ましい、と言いたいところだがどう見ても欲張りなこどもだった。整えられた爪や白魚のような指に垂れていくジャムを舌で追うだけじゃ間に合わないと諦めたのかティッシュで手を拭うと次にベーコンエッグをフォークとナイフを器用に使って食べる。食べ物を租借するプロシュートは昨晩の痴態と変わらず大胆でそれでいて繊細で、神がエロスの化身を作ったとしたらこんなものなのだろうな、などと考えながらトーストを食べているとプロシュートが手を止めてこちらを見ているのに気がついた。「何かついているか?」と聞くと「いや、おまえ食べてるとリスみたいだなって」と言われ、こちらはおまえがエロスの権化であるかのようにおもっていたのにおまえから見たオレはリスかとすこしがっくりときた。いや、もちろんリスが嫌いなわけではない。リスは好きだ。頬袋が可愛いとおもう。しかし大の男に対して用いる形容詞だろうか。いやちがうだろう。プロシュートはオレよりすこし早くすべてのものを食し、「あー腹一杯だ。朝からきちんと食うのはひさしぶりだぜ」と言うと満足げに微笑んだ。それはよかった、と最後の一口を飲み込むと、それを待っていたかのようにプロシュートは机に手をつきオレの唇を舐めた。そうして「また来る」と言ってひらりと玄関のほうへ向かって歩いてゆきばたん、とドアーを閉めて出て行った。後には耳を赤く染め呆然とするオレが一人ぽつりと残された。
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