赤い幸福





目を見開いて彼が倒れ落ちる瞬間を見ていた。まるでスローモーションのようにゆっくりと膝から彼は倒れていって、ぼくは斜め後ろからただそれを見ていた。こんな瞬間がくるような気がしていた。でもそれが今だなんて思いもしなかった。倒れた彼の体から赤い赤い血がゆっくりと流れ出す。それはぞっとするほど綺麗で、ぼくは目を離せずにいた。彼の握っていた傘が転がって向こうのほうに落ちている、ぼくの握っているそれと揃いのそれは血と同じようにひどく赤かった。

彼と出会ったのは高校のころだ。光崎真という名前はすでに学校中に知れ渡っていて、いわゆる不良というヤツだった。ぼくは彼をしらなかったが「とにかく近づくなよ。嬲り殺しにされんぞ」という友人たちの進言に従って極力彼を避けていた。そもそもクラスも学年もちがうぼくたちが出会うこと、それ自体が普通に学校生活を送っていればないことだったのでぼくはとくに彼を意識することもなく毎日を過ごしていた。そんなある日だ。先生に頼まれて進学についてのプリントを職員室まで届けに廊下を歩いていたら背の高い男にぶつかった。「あ、ごめん」ととっさに謝ってぶつかった男のほうを見ると彼は口の端が切れていて鼻血も出した形跡がありなによりひどく鋭い眼でこちらを見ていた。ぼくはとっさに(こいつが噂の光崎だ)とおもいさっさと散らばったプリントを集めて職員室へ、とさっと目を逸らした。すると男は大きな体を折り曲げるようにして屈みこむと黙々とプリントを集め始めた。ぼくはしばらく呆気にとられていたがはっと我に返り屈んで一緒にプリントを集めた。集め終わると男は「ほい」とぼくのほうにプリントを渡し、屈みこんだままの姿勢で「あんた、名前は?」と聞いた。ぼくはなんでこいつ名前なんか聞いてくるんだ?とおもいながらも「や、谷萩。谷萩ヒロ」と答えた。すると「ヒロかぁ〜オレ光崎真。マコって呼んでくれよ」と言って笑った。「や…呼ぶ機会ないとおもうけど。プリントありがとう。それじゃ」そう言って立ち上がると「待てよ。あんたオモシレ―な。絶対呼ばせてみせっから。じゃーオシゴトがんばってね〜」そう言ってへらりと笑い光崎はひらひらと手を振ってみせた。ぼくはすこし会釈を返してくるりと背を向けた。変なのに絡まれた。最初はそんな印象だった。

翌日、教室へ行くとぼくの席に光崎が座っていた。大きな体を投げ出すように椅子に座り、ぼくの姿を見つけると「あ、おはよっす!」と明るく声をかけてきた。
「なんで君がぼくの席に座ってるんだよ…」
「ヒロ、じゃねーや、谷萩さんて先輩だったんスね。ヒロさんって呼んでいいスか?」
「やめてくれよ、やくざじゃあるまいし」
「ハハッ似たようなモンすよ。てゆーか敬語?オレ苦手なんでタメでいー?」
「なんでもいいけど出てってくれ。邪魔だから」
「つれないね〜つーかヒロさん俺のこと怖くねーの?」
「べつに。だって人だろ」
「だってオレけっこー悪い噂立てられてるみたいじゃん」
「ああ。でも君ぼくのこと嬲り殺しにしなかったし」
「えっオレ嬲り殺しにするとか言われてんの?さすがにそれはねーよ。喧嘩売られたら話は別だけどさ」
「そう。良い人なんだね。とりあえずどいてくれない?」
「あっはーい、どきますどきます。また来るから待っててよね」
「待たないよ…」
「それじゃまた来ますんでー!」
「人の話を聞けよな…」
またねー!とか言いながら手を振って教室を出て行った彼におもわずため息を吐くとそれまで息をひそめるようにして遠巻きにしていたクラスメイトたちが寄ってきて「あれって光崎だよな?」「どうやって手なづけたの?」「おまえも実は怖い人なの?」などと質問責めにされた。「しらないよ」と答えてもう一度ため息を吐く。厄介なのに懐かれたなとおもった。

それから光崎は毎日のようにクラスにぶらりと遊びにくるようになった。クラスメイトが怖がりつつも好奇の目を爛々と向けてくるのでぼくは光崎に「どこか別の場所で話そう」と言った。すると「じゃあ屋上にしようぜ」と言われべつに断る理由もないのでぼくは了承した。屋上は本来立ち入り禁止だが鍵が壊れているから入れるとの話だった。「そんな場所なら他の不良も溜まってそうだけど」と言うと「あーなんかオレが来たらみんな逃げるみたいにどっか行っちまった」だから今はオレだけの秘密基地なの。そう言って光崎は笑ってみせた。その目に宿る光がすこし悲しげに見えてぼくは光崎がどんな人間なのかにはじめて興味を持った。光崎とぼくは毎日屋上で会うようになった。光崎はどんなときでもどっかしらに怪我をしていた。「親御さんが心配するんじゃないの」と聞くと「親はオレなんかに興味ねえから。セックスできたら満足みてーな親でさ。いっつも他の奴ら連れ込んで乱交パーティしてるよ」と言った。「ふーん…」と返してぼくの家とはだいぶ違うなとおもった。うちだって仲睦まじいとは言えないが両親はぼくのことを心配しているのがわかるし愛情だってくれているのがわかる。それがたまに重いときもあるが愛情をまったく向けられないというのはどういうきもちなんだろう。

ある日光崎はまるでボロ雑巾みたいになって屋上へあらわれた。あちこちに裂傷ができていて打撲も酷く、怪我という怪我をしてきた、ような姿だった。「どうしたんだよ」と聞くと「しくじった」と答えた。
「なあヒロさん」
「なに。早く病院行けよ」
「あのさ、オレやくざになるよ」
「え?」
「一人で喧嘩屋やってても限界あるからさ。オレ、やくざになる」
「いいけど、おまえやくざがどういう商売かしってるのか」
「ヘヘッしらねー。でも強いだろ」
「ばか。やめとけよ。どうせおまえなんか下っ端だよ」
「それでもいーよ。そんでさ、ここからが本題なんだけど、ッテテテ」
「早く病院行けよ」
「ヒロさん、おれと一緒に暮らしてくんねーかな」
「…は、」
「オレ、ヒロさんと生きたい」
「なに言ってんだ光崎」
「マコって呼んでって」
「ぼくと生きたいってなんだよ」
「うーん、プロポーズ?」
「わけがわからない…」
「なあダメ?一緒に住んでくれるだけでいいよ、オレ、ヒロさんがいると安心すんだよ。はじめてなんだよこんなきもち」
「…卒業したら」
「まじ?あーよかった、フラれたらどーしよーかとおもった」
「どうもしなくていいだろ」
「いやだってさあ」
「一緒に住むだけだろ?いいよべつに」
「ヒロさん、好きだぜ」
「光崎、おまえ前から思ってたけどばかだろ」
光崎は失礼だなーと言いながら笑った。ぼくも笑った。
そのころが一番幸せだったかもしれない。

ぼくが学校を卒業すると同時に光崎は学校をやめた。そして同じちいさなアパートを借りて暮らし始めた。ぼくは大学に通いながらバイト代を生活費にあて、光崎はなんだか胡散臭い商売に手を出すようになった。ナイフを手放さなくなった。「いらないだろそんなもの」と言うと「もしものときのためだって」と笑った。ぼくには光崎がいいように使われているようにしか見えなかった。やくざなんかやめちまえ、とも言った。すると光崎は、ヒロさんはしらないだろうけどそんな簡単にやめられないんだよ。もう学生だったころとはちがうんだ、と言った。そして今日だ。買い物帰りだった。いつものように光崎は笑っていた。いつもと違ったのはアパートの前にたくさんの胡散臭い連中がいたこと、そのうちの一人が拳銃を持っていたこと、それを光崎に向けたこと、そして光崎がその弾丸に打ち抜かれたことだった。連中は「けじめ」と言った。ぼくは何のけじめを光崎がつけられたのかわからない。光崎がしていたことも何もしらない。こんなにも近くにいたのに光崎のことを何もしらない。光崎を形成していた赤い赤い血がゆっくりと流れ出す。それはあまりにもうつくしく、転がっていった赤い傘がぼくらのしあわせを象徴しているようで、ぼくは動けずにいた。連中がずらかってはじめてぼくの足は動くことをゆるされたように光崎のほうへ向かって歩き出した。倒れこんだ姿勢のまま動かない光崎にふれる。どんどん冷えていく体温にぼくの脈が速くなっていくのがわかる。「光崎、光崎、」と何度か呼んだ。それでも反応のない彼に「…マコ」と呟くと光崎の唇が震えるように笑みの形をつくって「やっとマコって呼んでくれたね、ヒロさん…」と言ってそのまま動かなくなった。ぼくの頬を熱い涙がつうと流れていくのを遠い意識の中で感じていた。






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