エゴイストの盲目(ディオ×ジョナサン)







それは影のようにまとわりつく感触だった。アイツを見るだけで虫唾が走った。碧い瞳、黒い髪、陽気な笑い声、そのすべてが嫌いだった。オレの世界にあの男がいる、その事実はオレをいつも薄暗いきもちにさせた。アイツを抹殺してやりたい、ここから。そうすればきっとオレは楽になれる。爪を噛む。あれを始末する方法を幾通りも考える。そうしている間だけオレはすこし呼吸ができる。アイツの断末魔を想像する。愉快だ、アレはきっと大きな声で喚き苦しむだろう。オレの父親がそうだったように。しかしなぜだろう、オレはダリオ・ブランド―を殺したときのようにアイツに対して殺害計画を実行することはなかった。ただまとわりつく影のような存在に恐怖を感じながら表向きはアイツと仲が良いようなフリをした。「ディオ」奴がオレの名前を呼ぶ、オレはそれに笑顔で応える。
「なんだい、ジョジョ」
「君がこのあいだ読んでいた本、あれなんていうタイトルだったかな?どうしても思い出せなくて…」
「ジョジョ、このあいだって言われたってわからないよ。オレが一日にどれだけ本を読むかは君もしるところだろう?」
「あっそうだね、それもそうだ。たしか愛情に関する資料だったように思うんだけど」
「もしかしてルソーのジャン=ジャックを裁く、かな?」
「ああ!それだ!ありがとう」
「いいや。しかし君は考古学にしか興味がないと思っていたがね」
そう言うとジョナサンは目をすこし逸らして「失礼な言いようかもしれないけど…」と言った。
「何が失礼なんだ?」
「君が愛情に関する本を読んでいるなんて珍しいと思って…それで…」
「君は意外と細かいことが気になる性格なんだな」
「フフッ君は意外と大雑把な性格をしているよ」
「失礼だな。オレはとても繊細だぜ」
「じゃあそういうことにしておこうかな」
そう言ってジョナサンは笑った。耳障りな声だ。今すぐにきえればいい、そう思い舌打ちしそうになったのをなんとか堪える。どうしてこの男はオレをこんなにも不快な気分にさせるのだろう。オレはこの6年、このきもちを抑え続けてきた。もう限界だ、はやくこの家を出たい、財産だけはすべて攫って。ジョナサンがすべてを失ってしょげかえっているところを想像してみる、涙をぼろぼろ零しながら父親の死を悲しみ、財産のことなど念頭にないといった風情で毎日部屋に閉じこもっている男の姿を。それはとんでもなく素敵な想像だった。ジョナサンはずっと日の当たらない暗い部屋で落ち込んでいるのが似合う。ずっとそうしていろ、と思う。そうしてオレしか自分にはいないのだとジョナサンが気づいたときにオレはジョナサンの前から姿を消す。彼が死より孤独な場所へゆくというのを考えるのは非常に楽しいことだった。そうだ、この男には孤独が似合う。それをオレは与えてやることができる。オレの手で、ジョナサンはみっともなく、自分を愛してくれる人間のいる贅沢な世界から誰も自分を見てくれない孤独の底へ沈んでゆくのだ。ああ!なんて幸福!オレはそっと笑んでジョナサンのその能天気そうな顔が歪む瞬間を想った。

「ジャン=ジャックを裁く…あった!」
見つけた本はハードカバーの分厚い本で上下巻に分かれていた。ぱらぱらとめくってみる。その中に「対話」という章を見つけた。何気なく文章に目を走らせる。そこにはこう書かれていた。≪素朴な情念はすべて直接にわれわれの幸福をめざしているので、それに関係のある目標しかわれわれをかかわらせず、自己愛のみを原理としているので、本質的にまったく優しく穏やかなものなのです。しかし障害によって目標からそらされると素朴な情念は到達すべき目標よりも避けるべき障害のほうにかかずらって性質を変えてしまい、怒りっぽく憎しみに満ちた情念になる。まさにこのようにして、善なる絶対感情である自己愛が、利己愛、すなわちたがいを比較させ選り好みさせる相対感情になるわけです。利己愛のもたらす喜びはただただ否定的なもので、利己愛はもはやわれわれ自身の幸福によってではなく、他人の不幸によってのみ満足させられるのです≫僕はそれを読んでぞわりと背筋が凍るような感覚を覚えた。≪他人の不幸によってのみ満足させられる≫その一文になぜかディオのすべてが詰まっているような気がしたのだ。ディオはいつも笑顔を絶やさず、快活で頭のよい青年だ。出会った当初は多少ぶつかったし、今でもいい思い出とはいえないものもあるが、僕たちは仲良く過ごしてきた。彼は僕に対してとてもやさしいし、大学でもたくさんの友人に囲まれている。彼に好意を持つ女性から彼にきもちを伝えて欲しいと頼まれた回数は数えきれないほどだ。けれどそんなふうに誰からも好かれる彼に、僕は友情を感じたことがない。それどころか彼には憎まれているような気すらするのだ。彼は時折ひどく暗い目をする。礼儀作法も完璧でどんな場所でもふさわしく振る舞う彼がそういうときだけ爪を噛む。そして僕のほうをじっと見つめるのだ。その視線に込められた感情を僕はしらない。けれどけっしてよいものではないのだろうことだけはなんとなく察していた。彼は僕に何かを隠している、けれど僕はそれは何かと彼に問い詰めることができない。なぜならそれを聞いてしまったら僕らの関係は決定的に決裂してしまうような気がするからだ。僕はそれが恐ろしい。本を閉じて別の本に手を伸ばす。今自分が想像してしまったディオの本質が事実であるとは思いたくなかった。彼が僕を不幸にすることを考えているなんて、きっと僕の思い過ごしだ。あんなに素敵な青年に対してこんな感情を抱く僕はきっとおかしい。僕のほうこそ歪んでいるのだ。考古学の研究に戻ろうと本棚を漁っていると手が当たって本が何冊か床に散らばった。「あっ」とちいさく呟いて本棚に戻そうとしゃがみこんだ。するとその手に見覚えのある手がふれた。
「まだ本を探していたのか?」
慣れた声が笑みを含んで降ってくる。心地好い声だと思う。まるでせせらぎのようだ。ディオは散らばった本のうちの一冊をとってさっと開くとその声で歌でもうたうように一節を読んだ。
「《邪悪な輩は、自己愛者=エゴイストのことではない、なぜならエゴイストは自らの関心、利益にのみ注意を払うことに忙しく、他人の不幸などにかまっているほど余裕はないのだから。本当に厄介な「悪人」とは、自身へよりも他人への関心に没頭してしまう連中だ》」
そうして僕に笑顔を向ける。
「だそうだ。君はどう思うね?」
「どうって?」
僕はディオと目を合わせられないまま答える。
「君はエゴイストか?『悪人』というのはいるとおもうか?」
「そりゃ…僕だって自分が恋しいし、多少なりとエゴイストではあると思うけれど…」
「けれど?」
「『悪人』というのは存在しないと思う」
「ほう?それは興味深いな。聞かせてくれ」
「悪というのは…その行いであって、その人自身じゃあないと思うんだ。つまり悪いことをしたとしても、良いことを一度もしない人間などいないと思うし、誰かにとってその人はかけがいのない、存在自体が素晴らしい人かもしれない。これはもう悪い人とは一概に言えないだろう?僕は本質的に悪である人間などいないと考えるよ」
「しかし良い行いを行ったことなどないという人間もいるかもしれない」
「その人は機会に恵まれなかっただけだよ。それに自分で良いことをしたと思っていなかったとしても案外他の人間からすれば良い行いをしていたりするもんさ。ひとつの定規じゃあ測れないよ」
「ふん…君はそういうふうに考えるのか。やはり甘ちゃんだな」
「え?」
「いや。君らしいやさしさに溢れた答えだと思ったのさ」
「じゃあディオ、君は『悪人』はいると思うのかい?」
「ああ。君の意見とは食い違ってしまうが、たとえ誰かにとって良い行為をしていたとしたって一度行った悪がきえるわけじゃあない。さっき読んだ文章にあったとおり、他人の不幸だけを望む人間だっているだろう。そういう人間を悪と言わずしてなんというんだ?オレは悪というのは絶対的に存在すると考える。だが…」
そこでディオは沈黙を楽しむかのように黙り、そしてまた語り出した。
「悪の中で悪人たちをまとめるカリスマとなる悪人もいるだろうと思うな。そういう存在は必要とされるはずだ。そういう人間はまさに悪人の救世主だ。君の理屈でいうとこのカリスマ的存在は悪とは呼べないわけだ。そうだろう?」
「…そうなるね」
「オレたちの意見はここで一致する。オレは悪人はいるという立場だが、悪でないと救えない悪があるからな」
「まるで自分が悪人のような言い方をするんだな」
するとディオはふ、と笑った。その笑顔は今までに見たことがないほどに美しかった。赤くも見える色の薄い瞳がそっと細まる。僕は背筋に走る悪寒を抑えられない、ディオはきっと僕に何かを隠している。そしてそれは僕たちの袂を分かつような何かだ。だからディオは語らない、心の底に秘めたままこうして僕を見る。笑う。僕はそんなディオの儚げな背中を抱きしめたくてたまらなくなった。大丈夫だよと言って抱きしめたい。けれど僕の臆病な両手はそれをすることを拒み、僕は曖昧な笑みを浮かべて彼を見つめることしかできなかった。

『悪人というのは存在するのか』
戯れに話したそれはオレの胸糞を悪くするのに充分だった。ジョナサンの奴、悪人はいないだって?おまえは目の前にオレという悪人を前にしてその理想論のようなキレイごとを並べているのだ。正直ぶん殴ってやりたかった。悪というのは行為だけだなんて!そんなことはないのだと教えてやりたかった。オレは人殺しだ。そしてまた人を殺すことを企んでいる。己の幸福のためだけに!だがそれが間違っているとは思わない。自身の幸福を追及することの何が悪い。そう聞いてまわったとしたって誰も答えられはしないだろう。ルソーだってジジェクだって何も言えないはずだ。いや、それこそが悪だと説くのだろうか。どちらでもいい。悪であろうがなかろうがオレのすることは決まっている。ジョージ・ジョースターを殺し、ジョナサンからすべてを奪う。きっと憑き物が落ちるように胸がすうと晴れることだろう。きっと影のようにまとわりつくあの感触、あれからも逃れられるはずだ。憎らしい男と共に過ごしているからこんな感情に襲われるのだ。ああ、ジョナサン、おまえの首をこの手で絞めたならすこしばかりの幸福感は味わえるだろうか。その瞬間を思い浮かべオレは笑みを浮かべた。目の前の碧い瞳がすこし揺らぐ。何かを言いたそうに唇が動く。しかしジョナサンは何も言うことなくそっとオレに笑いかけた。がらがらと音を立てるようにさっきまでの幸福感がどこかへ飛んでいく。この笑みだ。いや、笑顔だけじゃあない、オレはジョナサン・ジョースターという男のどんな顔も姿も見たくはないのだ。けれど起きているあいだも眠っているときもこの男ばかりが浮かぶ。夢の中にまでジョナサンが入ってくる。ジョナサンはいつも何も言わない。ただオレの影のようにひっそりと佇み、オレが振り返ると手を差し出すのだ。曖昧な笑みを浮かべて。その手を払い、オレは走る。まるで逃げるように。そんなビジョンばかりが瞼の裏に浮かぶ。ルソーは何と言ったのだったか。自己愛が利己愛に変わるとき、自身の幸福では満たされず他人の不幸でのみ幸福を得るようになる、だったか。人に見透かされるようなことを言われるのは甚だ不本意だし不愉快だが、オレはジョナサンを不幸にすることでしか満たされないだろう。まっくらな日のあたらない部屋に閉じ込めて気まぐれにいじめてやる。奴の中がオレだけになったときこそすべてのはじまりだ。オレはそのときジョナサンの前から姿を消す。そして奴をからっぽの腑抜けにしてやる。しかしジョナサン・ジョースターからすべてを奪い、肉体さえ奪って、そうしてからっぽの腑抜けになるのは自分のほうだったのだとしったのは計画を実行し、彼をこの両手から失ってからだった。まとわりつく影は彼への感情すべてだったのだと、彼がいなければ生きてなどゆけないとしったのは。幸福について考え続けてきた、その答えはジョナサンが握っていた、オレは悪人にすらなりきれぬ幸福を求めさまよう、盲目のエゴイストだった。







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