カメリア
※天野月子の同名曲からイメージしました
今朝は冷えるな、そうぼんやりとおもいながら庭に出た。切り揃えられた黒髪が風を受けて無様に揺れる。庭では男が水を古井戸から汲み上げては残さず木に与えていた。木の名前をカメリアという。日本では椿、と呼ばれるらしい。どちらにせよ名をつけた人間はセンスがある。彼は毎日カメリアの世話ばかりしている。彼の世界にはおそらく、カメリアとこの家と、そして私しかいないのだとおもう。彼は熱心に花と向かい合っている。「おはよう」と声をかけると「うん」と返ってきた。いやそこはおはようと返せよ、とおもいながらも何も言わずに私は彼に近づき、「満開だね」と声をかける。すると彼はすこしかなしげな顔をするので、反射的に「どうしたの?」と聞いてしまった。
「花が咲いたら、散る」
「そうね」
「だからいつまでも咲かなければいいとおもうんだ。でも季節は必ず廻ってきて、毎年この花は咲く。だから悲しいんだ」
そう言って下にぽとりと落ちた花を拾い上げた彼の無骨な手を私は握った。
「あなたが突然止まって動かなくなっても、私はあなたを見続けるよ、大丈夫だよ」
この花だって同じよ。あなたの手で咲いて、あなたの手の中で終わりを迎えるの。だからきっとあなたが終わりを迎えるときはいっぱいに咲いて見守ってくれるわ。心配しなくてもあなたがおもってるより花も私もつよいのよ。そう言って覗き込むように笑ってみせる。すると彼はすこし微笑んだ。その顔を見て私は、けっして彼の傍を離れないでいようと、何度目かわからない決心をする。
彼がこの家にやってきたのは彼がまだ十に満たないころだった。彼の腕は折れており、足はもがれていてもう一生はえてこないだろうことが容易に想像できた。彼は言葉を話さなかった。がらんどうの中にいる、そうおもった。私と同じだ。私もこの家というがらんどうの中に居続けている。彼はそんな私の希望になった。彼を見守ること、それだけが私の光となった。彼のたくさんの生傷に薬を塗り、愛撫した。やさしくふれて、彼の虚ろな瞳に光を取り戻そうと私は努力した。彼に光をもらったように、私も彼に何かしてやりたかった。私はある日、八百屋や肉屋や豆腐屋が立ち並ぶ商店街の一角で、ちいさく縮こまるようにして営業している花屋を見つけた。そこに置いてある色とりどりの花の中で、緑の厚い葉を遠慮がちに枝の先につけて、真っ赤な花を咲かせているカメリアに出会った。私はなんとなくその佇まいが気に入って、彼に買って帰ることにした。「お土産があるのよ」と言って玄関先まで出迎えてくれた彼にそっと植木鉢に植わったそれを見せると彼は興味を隠しきれない様子で「なに、これ」と聞いた。
「花よ。カメリアっていうの」
「カメリア?」
「そう。真っ赤な花を冬、だーれも咲かないときに咲かせて、咲いたらすぐに落ちてしまうしとやかでしずかな花よ」
「この子を見てくれる人はいるの?」
「あなたがずっと傍にいてあげたら咲いた瞬間を見てあげられるわ」
そう言うと彼の虚ろだった瞳に一筋光が差し込むのが見えた。私と彼はその鉢植えをひっくりかえして庭の片隅を掘り、そこにカメリアを植えた。彼の世界にひとつ、真っ赤な花が増えた。彼は一生懸命に世話をし、木が大きくなるごとに彼も大きくなって、いつしか大人になった。私はそんな彼らをずっとここで眺めている。握った手を彼が握り返す。温かな体温に彼がそこにいると安心する。ちいさな世界からいつか彼がはばたいても同じように並んで花を眺められるよう、ひそやかに私は神様に祈った。
back