路面電車
※リプライくれた人のイメージで小説書く
※ミホさんへ
路面電車は決まった道をゆく。毎朝ちがった顔を乗せながら。ぼくの趣味はボケたおじいちゃんがひとりで住むこのアパートの階段からあの電車の中に押し込められるようにしてどこかへ向かってゆくどこのだれともしらない人々を眺めること。本を読む人、そわそわと視線をさまよわせる人、うつろな瞳で窓の外を見ている人、さまざまだ。ある日ぼくはそのなかに少女がひとりいることに気がついた。今までに見たことのない顔だ。だがまあそんなことはままある。少女はおさげの髪をしきりに結い直しながらきょろきょろと周りを見ていた。その瞳とぼくの瞳がぶつかった。少女はしばらくぼくのほうを見ていたようにおもった。もちろんぼくの気のせいかもしれない。やがて電車はカーブを曲がって彼女の姿は見えなくなった。その日からぼくは彼女を毎日待ち続けるようになった。ぼくの趣味はだれともしらぬ少女を待つことに変わった。少女は一週間に一度、あの路面電車に乗ってどこかへ行くようだった。彼女はやはりぼくのことを見ていた。あるときぼくが気まぐれに手を振ってみたら彼女はにこりと笑い返して手を振ったのだ。そしてぼくたちの間でこのアパートの前を路面電車が走るとき手を振り合う約束事ができた。彼女の表情は見かけるたびにやわらかくなった。ぼくたちは互いのことを特別だとおもっている、話したことすらないのに。しかしその事実はぼくを久方ぶりに幸福な気分にさせた。
あるとき、彼女がしらない人と一緒にいるのを見かけた。若い男性だ。金持ちというわけではなさそうだったが清潔そうな服を着て背筋をしゃんと伸ばし、眼鏡をかけていた。彼女はぼくに気がつくと手を振った。隣の男性が何事か彼女に話しかけたのに対し彼女も何かを言って笑った。今まで見たなかで一番しあわせそうな彼女の顔だった。ぼくは振り返した手を途中で止めて、ふたりの様子を眺めた。彼女の隣にいるのがぼくではないことが無性にかなしかった。それから彼女は毎週その男性とともに電車に乗ってくるようになった。それでも彼女はぼくに向かって手を振ることをけしてやめなかった。いつもこのアパートの前に来ると彼女はぼくに向かって手を振ってくれた。やがて彼女の左手にきらりと輝くものがあることに気がついた。あれは指輪だったと気がついたのは電車が遠く見えなくなってからのことだった。彼女はもう少女ではなくうつくしい娘になっていた。そのうち彼女は赤ん坊を抱えて電車に乗るようになった。隣には相変わらず男性がいたが、以前よりも立派なスーツを着ていた。その両腕には大きな荷物がいつもあった。彼女は赤ん坊に話しかけたりとても忙しそうだったが、ぼくのほうを見ると以前と変わらず微笑んで手を振ってくれた。ぼくもいつも手を振り返した。彼女の子供はどんどん増えていって、あるとき5人になっていた。最初に見た赤ん坊はもうすっかりお兄ちゃんになっていて、下の子の面倒を見ているようだった。その様子を隣でベストにコートを羽織りマフラーを巻いた眼鏡の男性がほほえましそうに見ていた。ぼくは相変わらず毎朝、ボケたおじいちゃんがひとりで住むこのアパートの階段から、路面電車を眺めていた。彼女の子供たちはどんどん成長していって、ひとりふたりと姿を見せなくなった。彼女はもうおばあちゃんと呼んでもさしつかえない年頃になっていた。隣の男の人も腰が曲がり、以前のしゃんと伸びた背筋は見る影もなかった。けれどふたりはまだまだしあわせそうだった。彼女はいつも彼に向かってひどくたのしそうに話をしていた。そしてこのアパートに気づくと手を振ってくれるのだ。彼女の笑顔を見るのがぼくのしあわせだった。
それはとある週末のことだった。彼も彼女もいつもの時間に現れなかった。ぼくはどうしたんだろうとおもいながら彼女の姿を待った。彼女の微笑をもう一度見たいとおもいながらひたすらに待った。そして青々とした葉が赤く染まり落ちひどく風が吹く冬が来て、路面電車がなくなるというのを通りを歩く人々のうわさで聞いた。車がもっと走れるように地下に潜らせるらしい。来週の末が路面電車が走る最後だという。ぼくはぽっかりと胸に穴が空いたようなきもちになった。そして来週末がやってきた。ひとりその電車に乗ってきたのは彼女の隣にいつもいた、あの眼鏡の男性だった。そして彼はこのアパートのあたりに来ると、戸惑うように視線を泳がせながらゆっくりとしわだらけの手を振って見せた。ぼくはそれに応えるように手を振り返した。彼がそっと笑ったように見えた。そして路面電車はカーブを描き、ぼくの前から姿を消した。今、ぼくは、以前路面電車の走っていた道路を眺めている。そこはたくさんの車が行き来してひどく賑わしい。あるとき車のなかの少女がかぶりつくようにこちらを見ているのに気がついた。そっと手を振ってみる。すると少女はにっこり笑って手を振り返した。
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