心火


「──陛下。少々よろしいでしょうか」
 執務室の外に控える侍衛府令シウィブリョンが、伺いを立ててきた。女王は眺めていた上書から視線を上げ、扉越しの影に問う。
「どうしました?」
尻駅典コヨクチョンより大舎テサが参内し、陛下へのお目通りを願っております」
「……尻駅典大舎が?」
 トンマンの眉がわずかに持ち上がる。思わず傍に座っている司量部令サリャンブリョンを横目でちらりと見やった。本日の任務報告の最中だったピダムも、思いがけぬ来客に何事だろうかと小首を傾げている。
 尻駅典といえば国内の駅亭を監督する部署だが、その大舎は序列で見れば下位の官吏であり、王宮の女王へ直々に奏上を願い出ることなどまずないといっていい。何かよからぬことでも起きたのだろうかと、一抹の不安がトンマンの胸を過ぎる。
「ご都合がよろしくないようでしたら、日を改めさせましょうか」
「いいえ、大丈夫です。話を聞くので中へ通しなさい」
「畏まりました」
 侍衛府令へ謁見の許可を与えると、先客のピダムは気を利かせようとした。
「陛下。私は一旦退室いたしましょうか」
「いや、ここにいなさい。まだ報告が終わっていないから」
 口実をつくろい、トンマンは彼を傍へ留め置いた。司量部令は女王の片腕そのものである。この漠然とした不安が的中した時、きっと誰よりも頼りになるだろう。
 執務室に通された尻駅典大舎は、王に対する形式通りの挨拶を済ませると、早速本題に入った。
「陛下にご報告申し上げたき事案がございます。あまりにも畏れ多きことゆえ、口にすることさえはばかられますが……」
「構わぬ。申してみよ」
 大舎は面を伏せたまま、やや遠慮がちにトンマンに問うた。
「陛下におかれましては、以前、活里駅ファルリヨクを訪問なされたことを覚えておいででしょうか」
「活里駅?──ああ、覚えている。確か三月ほど前のことだったか」
 トンマンは首肯きながら記憶をたどる。伽耶遺民の故地である南方のコチルサン郡へ視察に行き、その帰路で活里駅に立ち寄ったのだった。
 大舎が確認するように訊ねてくる。
「陛下は活里駅にて、ある駅人と対話なさったそうですね」
「……駅人、ですか?」
 黙って問答を聞いていたピダムが確認するように小さく呟くのを横目に、トンマンは活里駅での出来事を思い出している。
 確かに彼女は活里駅の駅舎で、ある駅人に出会った。馬を替えてすぐに発つはずだったが、その仕事ぶりが目に留まり、しばし他愛もない話をしたのだった。トンマンの脳裏に、うっすらとその駅人の顔が浮かび上がってくる。
「──志鬼チグィ、と言ったか。あの者は」
「左様にございます」
「それで、その駅人がどうしたと?」
 大舎は言いにくそうに口ごもった。
「畏れ多くも、陛下のご尊顔を今一度拝したいと申しているそうでございます」
「何?私に会いたいと?」
「はい。陛下より直々にお言葉を賜って以来、あの者は心身を患ったかのごとく、日増しに憔悴しているとのこと……。陛下をお慕いするあまり、再会を懇願し、夜も眠れぬ有様だそうです」
「──たかが駅人ごときが、分不相応にも陛下への謁見を願っているというのか?」
 ピダムが冷たい目で大舎を一瞥する。大舎はその容赦のない視線にたじろぎながらも、奏上を続けた。
「こうして無礼を承知の上で参内致しましたのは、かの駅人の噂が王京にまで広まりつつあるためです。何しろチグィは活里駅では人望の厚い駅人ですので、周囲の者達の同情を集めているようです。──人々の口に戸は立てられず、伝聞には尾鰭がつくものでございます。このことが悪しき醜聞となって陛下の御耳に入るようなことがあってはならぬと思い、僭越ながら馳せ参じた次第にございます……」
 大舎が退室すると、トンマンはごく小さな溜息を漏らした。額に手を当て、目を閉じる。
「陛下」
 様子を窺うようなピダムの呼びかけに、再びうっすらと眼をひらいた。
「悪しき醜聞……か」
 彼女からしてみれば、かの駅人との対面にやましいことなどあろうはずもない。偶然駅舎に立ち寄り、少しばかりの世間話をしただけだ。だが、下手をすれば面倒な事態となりかねなかった。一介の平民に過ぎない下級役人が、未婚の女王に懸想して心身を病んでいるなどという噂は、まぎれもなく醜聞となるだろう。
「駅人のチグィとは……いったい何者なのです?活里駅でどのような話をされたのですか?」
 ピダムがもどかしげな眼差しを向けてくる。トンマンは心外だというように、わずかに眉根を寄せた。
「私と駅人との間に、何かあったかと疑っているのか?」
「そうは申しておりません。それに、そのようなことは考えたくもありません」
 感情の昂ぶりを抑えられず、身を乗り出すピダム。その熱意にトンマンはついのぼせてしまいそうになる。
 近頃はこの男の情熱がますますあからさまに感じられる。いくら気が付いていないふりを装っていようと、日ごと熱視線を注がれていればしだいに心も揺らいでくる。今度のことで火に油を注いだかもしれないと思いながらも、身の潔白を証明するように毅然とその目を見つめ返した。
「活里駅では侍衛府令も同行していた。駅人と二人きりで対話したわけではないし、後ろめたいことは何一つ話していない。私はただ駅舎の状況を聞いたり、周辺の暮らし向きを訊ねたりしただけだ」
 二言はない。その程度のことを咎められるというのなら、王は己の民に声をかけることすら許されないのかと問いたくなる。
「考えてみなさい。いみじくも先程お前が言った通りだ。一介の駅人が一度会っただけの王に再度謁見を願うなど、おかしいことだとは思わないか?──このことには何か裏があるのかもしれない。だからピダム、お前がその駅人を調査しなさい」
 女王の命を受けたピダムは、唇を噛みながら視線を落とした。私情をはさんだことを恥じているのかもしれない。
「私にお任せくださるのですか」
「お前は私の側近中の側近。信じているからこそ任せるのだ」
 我ながらずるい人間だとトンマンは思う。こう言えば、彼が奮起させられることを心得ていた。
 案の定、ピダムは純粋な喜びと使命感を帯びた表情で、深く頷く。
「その信頼に、必ずや報いるとお約束致します」
 

 赤く滲んだ太陽が西の稜線にゆっくりと沈んでいく。
 活里駅周辺では、大路にも小路にも旅閣ヨガクやら酒幕チュマクやらが所狭しと軒を連ねている。夕暮れ時を合図にあちこちでぽつぽつと提灯の明かりが灯り、旅人達を迎え入れるべく下人達が店先に出て呼び込みをはじめていた。
「そちらの殿方。これより先、山越えは危険となりましょう。今宵はどうぞわが店でゆるりと休んでゆかれませ」
 馬の手綱を引きながら往来を進むピダムを、妙齢の女が婀娜あだな声で呼び止めた。振り返れば赤い唇を三日月の形につり上げて微笑んで見せる。おそらく妓楼の客引きだろう。さりげなく袖を引いてこようとするのを、ピダムはやんわりと押しとどめた。
「山は越えぬ。これから駅舎へ向かうところだ」
「駅舎へ?伝令のお役目にございましょうか」
「いや。駅人に用がある」
「では、お帰りの際には是非わが店へお立ち寄りくださいまし。誠心誠意おもてなし致しますわ」
 彼に全く脈がないことを感じ取り、とってつけたような愛想笑いで離れていこうとする女を、ピダムははたと呼び止めた。
「お前は駅人のチグィという者を知っているか?」
「チグィ?──ああ。恋煩いで臥せっておられる、あのチグィ殿のことですね」
 女は気の毒そうな顔をして答える。
「駅舎に立ち寄られた女王陛下に一目お会いしてから、まるで心を奪われたように意気消沈しておられるそうですよ。お慰めしようにも、もうどんな女を見てもときめかないのですって」
「……」
「蟻が太陽に恋い焦がれるようなものですわ。真面目で良い方なのに、本当にお可哀想」
 遠くの鐘楼から梵鐘を撞く音が聞こえてきた。ちぎれ雲の向こうに、青白い月が淡く浮かんでいる。
 厩に馬をつなぎ、ピダムは駅舎をたずねてみた。
 執務室の中を覗くと、ひとりの駅人が背を向けて窓辺に座っている。開け放たれた窓から夜空を見上げているようだった。風が吹き込み、机上の書類を二、三枚、床の上にはらりと落とす。
 ピダムの足元がわずかに軋んだ。物音に振り返った駅人の顔は、まるで死霊に憑りつかれたようにやつれて生気がなかった。かがんで床から書類を拾い上げるピダムを、落ちくぼんだ瞳でじっと見つめる。
「──お前が活里駅の駅人、チグィだな?」
 低く鋭い声に問われ、駅人ははたと瞠目した。
「はい、私がチグィにございますが……。──貴殿は、どちら様でいらっしゃいますか?」
「お前の風聞をききつけてここへ来た。私は女王陛下より遣わされた使者である」
 チグィは盛大に息を飲んだ。そのまま石像のごとく硬直してしばらく動かなかった。そして突然、両目にあふれんばかりの涙を漲らせたかと思うと、くずおれるようにピダムの足元にひれ伏した。
「──お許しください。女王陛下、どうか……愚かなこの私をお許しください!」
 かすれた嗚咽がチグィの喉から絞り出された。額を何度も床に打ちつけ、小刻みに身を震わせている。
 ピダムは冷めた目で許しを懇願する駅人を見下ろした。
「それほどまでに許しを乞うのなら、なぜ畏れ多くもこのような不敬を働いた?」
「……道ならぬ想いであることは、重々承知しております。許されざる罪を犯しました。私は、私は……いかなる処罰も甘んじて受け入れる覚悟です。ただ、今ひとたび、陛下へのお目通りが叶うのであれば──」
 神仏を拝むかのごとく、両手を合わせて懇願するチグィの表情は切実だった。切れた額からは血が流れだし、涙と交じり合って頬を伝い落ちた。
「私のような賤しい者に、陛下はねぎらいのお言葉をかけてくださったのです。苦労をかけている、と……。民の暮らしぶりをお尋ねになり、まるでご自分のことのようにお心を痛めておられました。──農民達の不作を考慮し、今年の租税を延期するとも約束してくださりました」
 ピダムは女王の慈愛に満ちた顔を脳裏に思い浮かべていた。側に仕えてきた彼は知っている。即位して以来、トンマンが度々各地へ使者を派遣し、また時には自ら貧しい村落へ足を運び、慰問や施しを行ってきたことを。民への深い愛をもって善政を施すことが、女王の信条だった。民から慕われる王に、彼女はなりたがっていた。
「陛下は──すべての神国の民を愛しておられる」
 神妙なピダムの呟きに、チグィは泣きながら項垂れた。
「──存じておりますとも」
「……」
 ピダムは深い溜息をつく。馬を駆けてほつれた髪を掻き上げながら、静かな声で女王の言付けを伝えた。
「六日後、陛下が霊廟寺ヨンミョサへ行幸なさるだろう。──寺塔の下で待つようにとの仰せだ」


 閉門の鐘がやむ。夜の底に沈む徐羅伐ソラボルの街並みを、望楼から見おろす女王の姿があった。
 月明かりに照らされた王京大路をたどっていけば、たつみの方角に芬皇寺プナンサを見晴るかすことができる。それに近接している広大な寺院は、偉大なる曾祖父、真興大帝チヌンテジェによって建立された皇龍寺ファンヨンサだ。
「戻ったのか」
 トンマンの背後で気配が揺れた。それが何者であるかは、振り返って確かめるまでもない。
「ちょうど御龍省オヨンソンに言づけたところだ。六日後の行幸について」
「……やはり、霊廟寺へ行かれるおつもりですか?」
 その口ぶりからして、彼はまだ躊躇っているようだった。
「もし陛下の御身に何かありましたら──」
「どうした。私を守る自信がないのか?」
 トンマンはふっと目元を和らげる。
「私がお前を信じているのに」
「陛下……」
「それとも、私と駅人を引き合わせたくないのか?」
 ピダムが動揺をあらわにした。言葉につまり、拳をぎゅっと握り締める。こうもあからさまにされれば、さすがのトンマンもにわかに気まずくなってくる。
「会わせたくない、と……。そう思っては、いけませんか」
「……」
「どうかご安心ください。陛下のことは、このピダムが必ずお守りします」
 その瞳に、その言葉に、その心に嘘がないことには気付いている。──気が付かない方がおかしい。
「必ず」
 御仏の加護を願い、寺院を訪れる人びとは敬虔な祈りを捧げる。
 けれどトンマンは知っている。
 人を守ってくれるものは、結局は人なのだということを。


 寺院の朝は早い。普段であれば日の昇らぬうちから、本堂に集まった修行僧達の読経の声が漏れ聞こえてくるものだが、今朝はしんと静まり返っている。
 約束の六日後。黎明の薄闇にまぎれて、霊廟寺の扁額がかかげられた一柱門をくぐり抜ける人影があった。高々とそびえる寺塔の前まで来ると、はたと立ち止まり、辺りの様子をうかがう素振りを見せる。静寂に包まれた伽藍の中に人の姿は見当たらない。思いつめた表情でしばし木塔を見上げていると、不意に背後から声がかかった。
「早いな」
 活里駅の駅人チグィは、瞠目して振り返った。ピダムの近づく気配が感じられなかったせいだろう。
「使者殿……」
「陛下はじきに御出ましになる。それまでしばし話し相手になるようにと、私を遣わされたのだ」
「……ご配慮、痛み入ります」
 女王との再会が迫っていることに感極まったのか、チグィが声を震わせる。
 表面上笑顔を繕いながら、ピダムは冷めた目で相手を観察している。彼は昨晩から霊廟寺に詰めていたが、いつこの男が現れるかと気を張るあまり一睡もしなかった。彼としては、やはり女王にこの男を会わせたくなどないのである。
「駅人殿。立ち話もなんだから、中に入って茶でもいかがだろうか?」
 忍耐は、ピダムの得手ではなかった。
 眠薬入りの茶を飲み、深い眠りに落ちたチグィを、寺塔の下に座らせておく。
 やがて霊山殿りょうぜんでんいらかが朝焼けに染まりはじめた。
 木蓮の木々が葉擦れの音を立て、御忍びの出で立ちの女王が颯爽と現れた。
「──眠っているようです。陛下」
 熟睡しているチグィを確認したアルチョンが報告する。肩を揺り動かし呼びかけるものの、起きる様子がない。
「起こしましょうか?」
「いえ。このまま眠らせておきましょう」
 トンマンは、笠から垂れ下がる薄布の奥から眠りこけるチグィを見下ろしていたが、やがておもむろに自分の手首に嵌めていた玉の腕輪をとりはずした。
「陛下?何をなさっておいでですか?」
 アルチョンのやや驚いたような声を無視し、腕輪をチグィの胸元に置く。その瞳にほんの一瞬憐れみの色が浮かぶも、立ち上がった時にはすでにかき消えていた。
「行きましょう。寺に来たのですから、御仏を拝まなければ罰当たりです」
 トンマンが本堂に上がり、黄金に輝く如来像の前で手を合わせた。ピダムは彼女が香を献じるのを見守りながら、じりじりとした思いを抱えている。
「陛下。何故、あの者に贈り物を?」
「──贈り物、か。お前にはそう見えるのか?」
 女王は笑っている。が、すぐに毅然と表情を引き締めた。
「これで私の役目は終わった。あとのことはピダム、お前に任せよう」
 太陽が西の稜線に沈む頃、寺塔の下で眠っていたチグィはようやく目を覚ました。
 慌てて飛び起きた拍子に、胸元に置かれていた玉の腕輪が転げ落ちる。それを拾い上げ、まじまじと眺めたかと思うと、突然大声を上げて泣き出した。決して取り返しのつかぬことをしてしまったという、悔悟の涙だった。
 すらりと抜刀する音がして、打ちひしがれるチグィの首筋に冷たい刃先が触れた。司量部令、ピダムの剣だった。
「活里駅の駅人チグィ。お前の罪は分かっているな?」
 弾劾されたチグィは、観念したようにピダムを見上げ、力なく頷いた。
「……分かっております」
「では、お前は何者だ?その口で白状せよ」
「私は……私は、百済ペクチェの密偵です」
 ピダムはその手から、胸のわだかまりとなっていた女王の腕輪を取り上げた。よく見ると、腕輪の内側に小さな文字が刻んである。

   流移滄海外 不見不相親

 彼女がこの男に渡したものは、贈り物ではなく、引導だったのだ。
 神国に害をなす者は、海の彼方に追い出し、見ることも親しむこともしてはならぬ──。
 調査を命じられた早い段階で、ピダムはチグィという男の素性を明らかにしていた。新羅人を装っているが、出自は百済であること。百済の名門貴族、鬼室クィシル氏の庶子であること。駅人の立場を利用し、伝令らの情報を百済側に密告していたこと。
「何故、陛下に近づこうとした?──百済から暗殺を命じられたか?」
 ピダムはチグィの喉元に刃先を滑らせた。チグィが血走った目を見開く。
「──滅相もございません!私は……陛下の御前にぬかづき、全てを打ち明けたうえで、罰を乞うつもりだったのです!」
「売国奴の言い分を信じろというのか?」
「陛下への思いに、嘘偽りはございません!──本当です!」
 今にも喉笛を切り裂かれそうになりながら、チグィは目を逸らすことなく訴えた。命が惜しくないのか。ピダムの判断力が、にわかに鈍りはじめる。
「私のような一介の民に、陛下は優しくお声をかけてくださりました。私のような善良な民のために国を治めたいのだと、そう仰りました。民が心豊かであってこそ、国もまた富めるのだと……。百済は祖国ですが、私を捨てた国です。卑しい母から生まれた庶子ゆえ必要ないと追い出しておきながら、利用価値のある時だけ利用する。百済の王様は、新羅の女王陛下のように下々の者を愛してはくださらない──。ですから、私は、百済を捨てようと覚悟したのです!」
 チグィが肩で息をしながら、また涙を流した。ピダムは玉の腕輪を強く握り締めた。
「百済を捨てる覚悟があると?」
「……私の心は、神国にあります!」
 ピダムがふと剣をおろしかけた。──その時、どこからか勢いよく放たれた火矢が、チグィの胸に深々と突き刺さった。
「ぐあああぁぁ──ッ!」
 チグィが断末魔の悲鳴を上げた。心臓からまたたく間に火が燃え広がり、体中を激しく包み込んだ。
「チグィ!」
 ピダムは咄嗟にチグィの胸から矢を引き抜こうとした。が、すでにチグィは火達磨となって地面をのたうち回っていた。燃え盛る炎の中でもがき苦しみながらも、その手はピダムが落とした女王の腕輪をつかみ取っている。髪の毛や肌の焼け焦げる臭いがした。チグィから発せられた火は、たちまち寺塔にまで燃え移っていった。
 頭の血が沸騰するような激しい怒りがピダムを支配した。素早く気配を探ると、本堂の瓦屋根で覆面の刺客が身をひるがえしたのが見えた。
「──ヨムジョン、捕らえろ!」
 刺客が塀を飛び越えたところで、待ち伏せしていたヨムジョンと無名団ムミョンダンがその身柄を拘束した。だが、ピダムが駆け付けた時には、すでに口から血を流して絶命していた。
「申し訳ありません。あっという間に、舌を噛んで自害しました……」
 ピダムは、はっと伽藍を振り返った。
 赤々と燃え盛る寺塔が見える。火事を知り、集まった僧侶達が慌てふためいている。
 空耳だろうか、喧噪の合間に、チグィの叫ぶ声を聞いたような気がした。
『──女王陛下、万歳!』
 

 活里駅の駅人チグィは、死してなお新羅にその名をとどめていた。
 彼が百済の密偵であったという事実は伏せられた。しかし、口さがない人々の噂話は絶えなかった。女王トンマンを恋い慕うあまり、心から生じた火によって焼死したチグィの浮かばれぬ魂は、火鬼となって王都を徘徊しているというのである。
 というのも、このところ徐羅伐では火事が相次いでいた。迷信じみた人々はこれをチグィの呪いにちがいない、と騒ぎ立てているのだった。そこでトンマンは民心をなだめるため、火鬼を鎮める呪詞をつくって広めることにした。民はこれを家の門や柱に貼り、火除けのまじないとした。

   志鬼心中火 焼身変火神
   流移滄海外 不見不相親

「──今後はますます外国の密偵に注意を払わなければ。チグィのような者は、どこに潜んでいてもおかしくないようだから」
 トンマンはピダムに念を押した。もう二度と、このような事態が起きないことを願うばかりだ。
 池の蓮が満開に咲いている。トンマンは手にしていた巻物を広げた。中には法船の絵が描かれている。死者を極楽浄土へ渡す船である。ちょうどこの池のように、法船を浮かべた海にも美しい蓮の花々が咲き誇っている。船上には火鬼となったチグィと、あの世への道案内をする水先みずさき菩薩が乗っていた。
「この絵は、どうされたのですか?」
 ピダムが横から覗き込んできた。トンマンはつと目を細める。
「これが、せめてもの供養になればいいのだが」
「……チグィのことを、やはり気に病んでおられるのですか?」
「あのように無残に死なせるつもりはなかった。国外追放を命じはしたが……。この国でなくても、どこかで元気に暮らしていくものだと思っていた」
 チグィは排さねばならない敵国の密偵だった。いかなる事情があろうと神国の敵を許すことはできない。けれど同時に、彼は慈しむべき善良な民でもあった。彼の駅人としての働きには、一点の染みも見当たらなかったという。
 トンマンは法船の絵を丸めると、それを蓮池にそっと沈め、両手を合わせた。彼女には慈悲の心があった。火に焼かれて死んだチグィが、少しでも楽になるといい、と思った。
「──私がついていながら、みすみす死なせてしまいました。責任はこの私にあります」
 ピダムが自責の念に駆られた顔で告白した。トンマンは静かに問う。
「あの者を憐れんでいるのか?」
「他人事とは思えませんでした」
 思わず、トンマンは息をのむ。
「ピダム。お前が神国の敵になるなど、考えたくもない」
「いえ、そういうことではなく……」
 失言を察したピダムもうろたえた。トンマンは、ふとピダムを無残に死なせてしまう幻が脳裏に浮かび、うっかり涙が出そうになった。そんなことは耐えられそうにない。顔を見られないように、数歩遠ざかって背を向ける。
「焼け焦げたチグィの手もとには、熱で溶けかけた玉の腕輪があったそうです。きっと、チグィの本心は……」
 背後のピダムが一歩、近づいたのが感じられた。トンマンは蓮池の水面を見おろした。先ほど供養のために沈めた法船の絵は、水底に深く落ちていったのか、もう見えない。
「……冷たく突き放した私を、恨んでいただろうか」
「むしろ、その逆だったと思います。──陛下」
 びくっとトンマンの上体が揺れた。後ろからピダムが彼女の肩を抱いていた。蓮と蓮のあいだに映る自分達の姿をトンマンは息を凝らして見つめる。ピダムは思いを込めるようにつかの間トンマンを強く抱き締め、解放した。窘めるべきなのに、背中に感じた温かさが離れたのが名残惜しい。はじかれたようにトンマンは振り返った。
「陛下は、まぶしいお方です」
 ピダムがはにかんで笑っている。トンマンも、つられて笑った。
「陛下のお顔を見ていると、いつも心に火がついたように感じます。もうずっと前から……」
 それきりピダムは口を閉ざした。おしゃべりよりも、先ほどの抱擁の余韻に浸ることを選んだのだった。
 ふと、彼の胸に触れて確かめてみたいという思いがトンマンの心に芽生えた。ピダムの目を見ているうちに、その思いは小さな火となってちりちりと彼女の胸を焦がしはじめた。けれど、手を伸ばせば触れられる位置にいるのに、どうしても手が動かなかった。得ることになるのか、失うことになるのかわからない。わからないことが、怖かった。
 こんな気持ちは、初めてだった。





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