練習を終えた徳川は、先ほど茉莉と買ったアロマの袋を持ち、ある家へと向かっていた。彼の手には、同じデザインの袋が二つ、収まっている。一つは自分のもの。もう一つは、先輩である入江奏多のものであった。スクールから自宅へ帰る途中に入江の家があるため、徳川は、彼の家に寄って、買ったアロマを届けることにしたのである。
「結局、何にしたの?」
「ローマンカモミールです」
「ああ、あれはいい香りだよね」
アロマの中では、ローマンカモミールは有名である。しかし、何故、彼が知っているのか。女癖が悪い、という彼の噂がふと頭をよぎったが、これと勝手に関連づけるのはあまりに失礼であろう。それを払拭して、徳川は会話を続けた。
「今日、帰ってから試してみようと思っています」
「そっか。それにしても、徳川くんって、本当に好きなんだね」
「何の話ですか?」
「ん?こっちの話だから、気にしなくていいよ」
そう言って心底楽しそうに笑う彼の内心が気になったが、時間が時間である。夜に、玄関先で長話をするのは悪いだろう。そう思った徳川は、失礼します、と別れを告げ、再び帰路についた。入江は、依然として笑んでいた。
翌日、深い眠りから醒めた彼は、体を起こし、指を組んでから真上に向かって腕を伸ばした。なんとなく、体が軽い気がする。思いこみの効果もあるかもしれないが、何にせよ、いい効果が得られた事は喜ばしいことだ。彼は支度をし、学校へと向かった。
彼は昇降口にある下駄箱に、靴をしまっていた。そして、室内履きに替えようとしていたときであった。徳川君、おはよう、と少し高めの声が聞こえてきた。彼は、声の方向へと振り向いた。挨拶の主は、彼の先輩である森下茉莉であった。
「昨日はどうだった?」
二人は昨日の放課後に、彼が使うアロマオイルを探しに行っていた。彼女の質問は、アロマを使った感想のことである。
「よく眠れました。でも、オフの日にも試してみないとまだ分からないですね」
「そっか。昨日は練習に行ったんだもんね」
いつもと変わらない世間話を、彼らは交わしている。しかし、いつもと、何かが違う。彼は、彼女からそんな印象を受けた。だが、彼女の外見には、何の変化も見られない。徳川は、彼女を、じぃっ、と見つめた。
「あ、もしかして私、髪の毛ハネてる?」
「いえ、そんなことはないです。その、何だかいつもと違う気がしたので」
「ならよかった。今日、朝起きたら髪が爆発しててね。急いで朝シャンして、セットして来たの。そのせいかも」
だから、いつもと受ける印象が違っていたのか。髪から、何だかいい香りがする。そう思った所で、徳川は、はっとした。もしかして、昨日選んだあの香りは。
「あの、センパイって、シトラス系のシャンプーを使ってますか?」
「うん。シトラスの匂いが好きなんだ。そういえば、徳川くんもこの間、シトラスの香りのアロマ選んでたよね。あんな感じの香りのシャンプーだよ」
イヤな予感が的中をしてしまった。昨日の入江の意味深長そうなあの笑みは、これを示唆していたのだろう。
「私、徳川くんと好みが似てるんだね」
そう続けた彼女に、そうですね、という同意を絞り出した。少し不自然な様子の彼に、彼女は首を傾げた。
彼女の匂いだから好きなのか、好きな香りがするから彼女に惹かれるのか。そんな卵が先か鶏が先かの解明は、簡単になされた。きっと、彼女への恋心が先だ。彼女がきっと香りを変えたとしても、この心がなくなることはない。根拠はないが、そんな確信が、彼にはあった。
その日から夢を見ることはなくなったが、それからというものの、眠りにつく瞬間に、彼女の顔が浮かぶようになった。ドキンと胸が高まった後で、温かい気持ちがじんわりと広がってゆく。湯たんぽのようなこの感覚が恋なのだと、徳川は知った。
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