memory 9 | ナノ
まだあの日から続く気まずさは多少緩和されているものの、両者の所作はたどたどしい。
ゆっくりと隣を歩く彼女を伺いながら、男の方も口を開けずにいた。
何も無かったように、軽妙な話でも出来れば上手くこの場を誤魔化せたのだろうが。
「……」
己の性格を恨みつつ、サガは黙々と終点を目指して。
迷宮の回廊を抜ければ、広々とした空間が展開される。初めて通された、居住区の木製家具らは女神の緊張を解してくれた。
促されて椅子に座った後、慌てて沙織は持参した品を取り出すと。
「あの、これ」
差し出された、小さな白い箱。痛い程に見覚えがあるその形状、それから否応無しに甦る後悔の渦。
己の愚かなる行動が壊してしまった、誕生日に贈られた尊き願いを。
「――…ッ」
「アイオロスに聞いたのです…サガの好きな物を。焼き菓子が、好物なんですって?」
「……え」
「見様見真似で作ってみたの…受け取ってくれます……?」
大事そうに紙箱を持つ手が、より一層白く透き通って映る。双子座の背中は一瞬にして汗が噴き出し、震えた指先は怖々と近付くが。
“誕生日、おめでとうございます…”
(――――!!)
触れるか触れないかの刹那、逆行再現した光景にサガの呼吸が止まる。
気丈に振る舞い、自分の傷よりも相手を思い遣った彼女は今尚過去に縛られたままだというのに。
これを、受け取るという事は。
――あの時の、女神の気持ちを踏み躙る行為ではないのか?
――確かに存在した女神の想いを無視して、また同じ過ちを繰り返すのか?
「――…サガ?」
「……今、御茶をお持ち致します…」
視線を外したサガは足早に奥へと消えてしまっていて、残された沙織は予想しない彼の行動に驚き暫く動けずにいた。
(……?まるで、避けるみたいに……)
不可解な挙動の理由。それを追究しようと試みた瞬間に走った激痛と、否定的な思考。
「――痛…っ」
単なる偶然、サガの態度は杞憂に過ぎないと。そう考えたくても、頭の中は闇の世界で埋め尽くされる。
(――……そ、んな…こと)
舞い上がっているのは、自分だけ。あの科白も、本当は女神への敬慕の意だったとしたら。
自身が強く望んだ故の歪んでしまった真実、無意識の中でサガに対してそれを強要していたのかもしれない。
女神と聖闘士の相愛など、夢幻でしかないと解っていた筈。
(何て馬鹿なの、私は……)
こんな浅ましい自分を晒したくない、双子座が席へ戻る前に一秒でも早く此処から逃げ出したかった。
辛くて、情けなくて。滑稽で、惨めだ。
堪え切れず沙織は素早く立ち上がり、白箱を抱き抱えるけれど。
「あ……っ」
力加減も無く、耳を伝った微かな悲鳴は。
(割れて…しまった…?)
中を確認するのが怖くて、箱を開ける指も躊躇してしまう。悪化する頭痛が遂に、隠し続けた時の扉を開ける。
“貴女からは何も受け取れません”
(―――っ!?)
耐えられず蟀谷を両手で押さえた拍子に、音を立てて零れ落ちた破片は見るも無残な姿で。
(駄目、今は……!思い出したくない……!!)
切願空しく、頭の中で再生されていく様々な情景。以って導き出された、最低で最悪の答に愕然とする。
――悲しみの海で溺れてしまう前に、自身が消えること。
記憶を手放したのは、自衛の手段。思慮の浅い、愚劣な行為。
それ以前に、女神である事を忘れ聖闘士を一人の人間として愛する……崇拝心を利用した、冒涜ではないか。
頬を濡らす透明な滴は次から次へと溢れ、止まらない。
「女神……!如何なされました…!?」
床に蹲る女神をその眼に捉えたサガは、酷く狼狽しながら駆け寄った。
その声に反応し、上体を起こした彼女の碧瞳に映ったのは何度も会った困惑の表情。
(私は、どこまで……サガを苦しめるの…?)
沙織の胸は、痛みで張り裂けそうだった。
「ごめん、なさい……!」
突然の詫言に、双子座は大きく目を見開く。
落ち着かせるように、無礼を承知で肩を支えるがその効果は期待出来ないようで。
「もう、何も……しませんから、思いません……から…!」
そして涙ながらに訴える真摯な辞が、最近のものと一致しない事にサガは漸く気が付いた。
(記憶が……戻ったのか……!?)
「だから……お願い…そんな、悲しそうな顔をしないで……」
「―――ッ!!」
これだけ涕を流しても、あの日と変わらず己に向けられたのは優しい言葉。
弾かれるように、サガは思い切り沙織を抱き締める。
「離して、下さい……!」
「離しませぬ…!!」
「ど、うして……?」
あの時は現実を受容れられなかった、せめて今度こそは。女神として、この想いを断ち切るつもりなのに。
聖闘士である彼が今の自分を捨て置けないのは重々理解していても、これでは余計に辛いだけだ。
「サガ……!!」
「――愛しております……我が、女神」
サガの胸の中で藻掻く沙織の手がピタリと止まる。
「え、……?」
緩徐に顔を上げた彼女の視界へ飛び込んだのは、嘘偽りの無い穏やかで優しい笑顔。
取り戻した過去にも存在しない、心根から滲み出るような。
「私の想いが……迷惑だったのでは、無くて…?」
だから敢て皆から祝福される日に、拒絶という方法を選んだのだろうと沙織は思っていた。
「逃げていたのです、貴女から……そして、私の気持ちから。己の罪を楯にして…」
未だに目許に溜まっている雫をサガはそっと拭う。それでも、潤んだ両眸が不安気に揺れている。
「女神が記憶を失って、初めて分かったのです……」
「な、にを……?」
「貴女を、愛していると……」
死ぬ程に後悔したあの日から償えるならばと、与えられた最初で最後の機会。
二度も、不甲斐無い己の所為で傷付けてしまった女神に。
――心からの、慕情を。
互いに背へと回された腕は、力強くも優しく離れない契りの如く。同調する温もりが、嬉しくてどうしようもない。
一筋の泪が落ちる前に、沙織は微笑んでその告白に続く。ずっと、秘めてきた想いは過去にも今でも此処に在るのだから。
「……私も、サガ……貴方を……」
――こんな私でも、愛する資格が有るのなら。総てをあなたに捧げます……。
男の強堅なる覚悟、女の一途な清心。
何も起きなければ交差する事すら無かった、二人を結ぶその鍵は喪われた記憶。
しかし追い求めていたそれは、御伽噺のように行かず完全には戻らなかった。
だが、新たに手にしたものがある。それこそ夢物語でさえも凌ぐ甘く溶けそうな。
「……愛してます……」
幸せという名の、未来。この世で一番の笑顔と共に最高の誕生日を、貴方へ……。