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Carpe diem



※ヒロインの設定重ためです。ご注意下さい。





"引退までは恋愛禁止"

それは俺達が高校一年をそろそろ終えようかとしている頃に、野球部の目標達成の為に定めたルールだ。
元々は田島が言い出した事だが、殆どの奴が大賛成とは言わないまでも「そうした方がいいよなぁ」程度の気持ちは持ち合わせていた。俺もそうだ。だが一つだけ、俺には他の部員には無い問題があった。
俺には一年の初めから付き合っている人がいる。幼馴染とまではいかないが小、中と同じ学校で数少ない異性の友達。そんな名字名前ときちんと付き合い始めてそろそろ10ヶ月が経とうとしていた時に、そんなルールが出来上がった。
とは言え、俺の気持ちは一つだ。今は何よりも野球が優先だし、チームメイト全員で決めたルールを蔑ろにするつもりも毛頭無い。そんな気持ちの中で生まれるのはどうしたって「別れる」という選択肢。別に名前の事が嫌いなわけでも無いし別れなくていいなら別れたくもない。しかし高校野球と天秤にかけるとなると両立するということは憚られた。

「名前、今日部活終わったらお前ん家寄っていいか」

ルールが決まったからには早めに相談しないと、と俺は昼休みに早速声をかけた。名前は一瞬キョトンとした表情を見せたがすぐに「いいよ」と笑顔を向ける。

「お前何時終わり?」
「八時」
「じゃー俺のが遅いな。家で待っててくれ」
「わかった」

そう言って名前はその場を離れた。まさか別れ話をされるなんて事は微塵も想像していないであろう彼女の顔を思い浮かべながら、俺は何と言葉をかけようかと窓の外を眺めた。何度も言うが、俺だって別れたくて言うのでは無い。野球に専念する為には仕方のない、必要な事なのだ。



その日の夜、何の疑問も持たずに俺を家に招き入れた名前の部屋で、俺は慣れたようにベッドの近くの床に腰を下ろした。名前も隣に座ろうとしたがそれを制し、向かいに座るよう促す。

「あのさ、ちょっと大事な話があって」
「うん」

流石の空気に名前は意識的なのか姿勢を正した。

「この間、俺達の野球部でいくつかルール決めたんだよ」
「そうなんだ。まぁ、運動部あるあるだよね。私のとこもいくつかルールあるし」
「…でさ、そのルールの内の一つなんだけど"引退するまでは恋愛禁止"なんだよな」
「……そっか」

非常に目を合わせ辛かったが恐る恐る様子を伺うと、意外にも名前はこれといって難しい表情はしていなかった。でも少しだけ、瞳を揺らして名前は一度強く頷いて見せると、俺の両手を掴んできた。

「阿部君の邪魔は絶対にしたくないから、言う通りにするよ」
「名前…」
「別れるってことで…いいんだよね?」
「あ、ああ…いや、ちょっと違う」

俺の手を離そうとした小さな手を、慌てて掴んで引き戻す。勢い余って俺の胸に飛び込む形となった名前を受け止めて、強く肩を掴んだ。

「少しの間だけ、離れるだけで俺は引退したらヨリ戻すつもりだから。勝手だけど、ごめん」
「…ん、わかった。ありがとう」
「あと二年もねーから。待っててくれると、嬉しい」
「…うん」

消え入りそうな返事と共に、細い腕が俺の背中に回されてシャツを強く掴まれたのを感じた。それがまるで名前も同じ気持ちであると言っているようで、人知れず俺は安堵してしまった。
これから約10年も会えないどころか連絡も取れなくなるなんて微塵も思わずに。








社会人になってから5、6年が経った。少しずつ後輩の方が多くなり部下も数人持ち始めた頃のとある休日。有休を消化しろという上からの指示で金曜日に休みをもらい、久しぶりに前日定時上がりした事もあって、朝から体を動かすべくジョギングも兼ねて遠回りをしながらバッティングセンターを目指していた。先週まで繁忙期だった事もあり殆ど家と会社の往復しかしていなかったせいか、色んな景色を見ながら走るだけでもかなりの気分転換になる。

「…こっち行くか」

久しく通っていなかった道に思わず入り込み、実家からあまり離れていないとはいえ一人暮らしを始めてからは見る機会の減った懐かしい風景に微かに頬が緩む。
そんな時だった。コンビニの前に立つ、一人の女の人が不意に目に映った。西浦高校から一番近いコンビニでよく部活帰りに利用したな、などと頭の片隅で思いながら何とはなしにその人物の横顔を眺めて通り過ぎようとしたところで目が合った。そして、一瞬時が止まったように俺は周りの音が一切聞こえなくなってしまった。
見間違えるわけがない。今そこにいるのは、紛れもなく名字名前だ。

「…えっ、なん、名前…?」
「……阿部君」

うまく言葉が紡げずしどろもどろになりながらなんとか彼女の名前を絞り出すと、相手側も両目を丸々と見開いて俺をジッと見つめてきた。
やはり見間違いでは無かった。そう頭が理解した途端に色々と伝えたい事が溢れ出て、俺は僅かに心拍数が上がってきていることに気付いた。落ち着け、と心の中で言い聞かせながら深呼吸を繰り返し、ようやく次の言葉を紡ぐ。

「…久しぶり」
「……そうだね。阿部君、なんか逞しくなったね」
「最初に言うことがソレかよ」
「…怒ってる?」
「怒ってるっつったら、全部話してくれんの」

言い方が少しキツくなったかと、やや不安が過ぎったが名前の表情はあまり変わらなかった。言いたくない訳ではなさそうだが、喜んで話したい内容ではないのだろう。

「…そんな顔しないでよ。ちゃんと話すから。ごめんね」

名前が耐えかねたように眉尻を下げて薄く笑って見せた。自分じゃよくわからないが、恐らく俺は今酷く頼りなさ気な顔でもしているんだろう。それでも、ちゃんと話すと言ってくれた名前に俺は一先ず安堵した。

「聞きたいこといっぱいあんだけど」
「わかってる。阿部君今日休みなの?」
「ああ」
「じゃあどこか…って阿部君その格好じゃお店入りにくいか」

そう言われて、俺は今ジョギング中だったことを思い出した。ジャージに真っ黒のTシャツ。財布と携帯はポケットに突っ込んでいるため鞄すら持たない。

「俺一回着替えてくるわ。近くだし。つか俺ん家は……あ、悪ィ。流石に嫌だよな」

つい気持ちが高校生に戻ってしまい、あの頃のように我が家に誘ってしまいかけた。とは言えあの頃とは何もかも違う。今は実家ではなく一人暮らしだし、そもそも今は恋人同士でも何でもない。微妙な別れ方をした"元カノと再会"という特殊イベントは勿論一度も経験が無い為どんな距離感で会話をしていいのか非常に難しい。

「近くなら着替えるの待ってるよ」
「わかった。どこ行く?」
「良かったら、ちょっと離れた所がいいな。この辺りをまだあんまりうろうろしたくないというか…もう大丈夫なんだけど、まだ心の準備が出来ないから」
「…じゃあ車出すから、俺ん家まで着いてきて」

俺が着替えてる間に消えられても困るし、と喉元まで言葉が出かかったがそれを言うと泣かせてしまいそうな気がして、流石に口に出来なかった。





俺が名前が居なくなったと気が付いたのは別れ話をしてから約一年後の事だった。二年では別のクラスになった事もあり、益々顔を合わせる機会が減ったとは言え廊下ですれ違ったり学年毎の行事では何かと目がいっていたし、声だって人混みに紛れていてもそれなりに聞き分けられた。それがある時を境に学校で名前の姿を見かけなくなったのだ。暫くは偶々だと思い込んで深く気にする事は無かったが、あまりにも存在の欠片さえ見当たらないので俺は名前のクラスに出向く事にした。

「名字?あー、なんか先月急に学校来なくなって、一週間後くらいに先生から転校したって聞いたけど」
「は?」
「でも俺ら、夜逃げじゃね?って話してんだよね。なんか来なくなる少し前から様子おかしかったし」

クラスメイトの言葉に俺は何の言葉も返せなかった。ただの転校なら、何の連絡も無いのは流石におかしい、と思う。だったらやはり何かあったんだと推測するのが普通だろう。とは言えクラスメイトの言うように「夜逃げ」というには飛躍し過ぎている気もして、俺は別れてから初めて自分から名前に連絡を取った。

結果、名前の番号は"現在使われておりません"という無機質なアナウンスが聞こえるばかりで繋がる片鱗さえ見えず、学校側に聞いても誰も何もわからないという。そんな事あるものかと名前の家に行ってもみたが、人の気配は感じられず、近所の人間も皆こぞって「夜逃げ」だと言った。
そんな八方塞がりのまま、俺は部活を引退し、高校も卒業。その後大学も出て就職するまで名前の事はいつも頭のどこかに存在していながらも半ば諦めかけている自分もいた。







「助手席乗って」
「うん」

マンションのエントランスで待っていた名前に慌てて駆け寄り、駐車場まで案内した。鍵を開けて、運転席に乗り込みながら名前に一瞥を投げると、何やら少し照れたようにして助手席側のドアを開けた。

「…阿部君の運転する姿、新鮮だね」
「何だそれ。初めて乗せるんだから、当たり前だろ」
「そう言う意味じゃないよ」

意味わかんねぇなと、口には出さないながらも妙な顔付きでアクセルを踏むと、隣から控えめな笑い声が聞こえてきた。視線は移せなかったが雰囲気で肩を揺らしているのを感じ取れる。

「…何」
「ううん、変わってなくて安心しただけ」
「何が?」
「阿部君が」
「…お前は、なんか少し変わったな」
「そう…かな…そう、かもね」

流石に自覚も多少はあるのだろう、名前は言葉尻がフェードアウトしつつもすっかり無表情に戻ってしまった。
姿を消すまでの名前は、どちらかといえばぽやんとしている方だった。明るく、コロコロとよく表情を変えながら俺の言葉に一喜一憂していた事を思い出す。それが今ではまるで別人のようなオーラを纏っている。本質そのものは変わっていないように思えるが、随分と大人びた。歳を重ねたのだから当たり前の部分も勿論あるが、それを考慮しても年相応には見えない雰囲気を出している。余程の苦労が重なったのかと、俺は少しだけ名前の話を聞く事に怖さを覚えた。

「どこ行く」
「どこでもいいよ、少し離れた所なら」
「つってもなぁ…」
「別にお店じゃなくても、どこか車停められる所とか」
「わかった」

俺はここから二十分程の所にある大きな公園を思い浮かべた。公園といっても遊具は滑り台一つだけで、後は広い駐車場とベンチしか無い。高台にある事から遊びに来るファミリー層よりも景色を見るための若者の方が多い印象だ。


目的の公園に辿り着き、広い駐車場に車を停める。

「そんな寒くねぇし、外出るか。飲みもん何がいい」
「一緒に行くよ」

別にジュース一本分くらいなんて事無いのだが、絶対に奢られたくないという強い意志が見て取れた。ここで無駄な口論をしても意味がないかと、俺は一度頷いて助手席を降りる名前を待つことにする。
道すがら何を話そうかと、無意味にスマホを弄りながらも意識をチラチラと彼女へ向けていると、名前の方から口火を切った。

「野球まだ続けてるの?」
「あー、趣味程度でな。基本的には仕事でいっぱいいっぱいだけど」
「西浦の皆と会ったりは?」
「全く会わねぇってこたねーけど、それぞれ生活あるからな。たまに連絡取るくらいか」
「田島君はテレビで見たよ。すごいね」
「高校から頭一つ抜けてたからな。お前は?」
「私?まったくだよ。阿部君と今日偶々会わなかったら、これからも誰とも連絡すら取らないと思う。携帯まるっと変えたから、誰の連絡先も残ってないし」
「やっぱりな。どーりで連絡つかねぇと思った」
「電話してくれたの?」
「あたりめーだろ」
「…ごめんね」
「もういーけど」

こうして逢えたわけだし。そう付け足して、自動販売機のボタンを押した。カップで出てくるタイプだったようで、俺の選んだブラックコーヒーから順番に作成されていく。俺はアイスだったが、名前はホットのカフェラテを選んだようで、出来上がったカップを持つために袖を伸ばして熱を和らげていた。

「適当に歩くか。何か椅子とかあるだろ」
「そうだね」

そう言ってお互い意識的に人の少ない方向へと歩き出した。夏の暑さはとうに過ぎ、秋口に差し掛かった気持ちの良い風が俺達の間を通り抜けていく。左耳がフゥフゥと飲み物を冷ます音を拾い、俺は少しだけ歩調を緩めた。





「……私が居なくなって、すぐに気付いた?」

暫く歩いたところで、徐に名前が呟いた。視線は絡まない。

「いや、多分一ヶ月くらい気付けなかった」
「二年の終わり頃だから、私達が別れ話をしてから大体一年ぐらいだね」
「一時的に、な」
「…うん、ごめん」
「……あー…言いづらいなら、別に無理にとは言わねぇよ」
「いや、大丈夫。もう、平気」

本当にそうなのか?と疑いたくもなるが、目線は相変わらず前を向いたままなのでどうにも表情が読み取り難い。

「まぁ、私のクラスでは噂になったかもしれないけど、夜逃げしたんだよね、端的に言えば」
「……」
「でももう解決したから大丈夫。誰も追ってこない」
「追って…って、」
「まぁ…そういう人達がね、やっぱりいるんだよ。ドラマとか漫画だけの世界の話じゃないんだなぁって思った」

悠長に話してはいるが、俺は今とんでもなく大変な話を聞かされているのでは無いか。そう頭の片隅では思うが、名前の言うように普段生活していてそうそう見聞きするような出来事では無いからか、中々現実味に欠ける。

「父親が騙されて借金背負って、そのまま蒸発しちゃったんだよね。まぁ、借金があったっていうのは父親が居なくなってから知った事だけど。それで私とお母さんがその責任を負うことになるわけだけど、とてもすぐには返せる金額じゃなくて」

急に饒舌に詳しく話し始めたのは、漸く彼女の中で踏ん切りが付いたからだろう。俺は周りに人が居ない、静かなベンチに腰を下ろすよう促して、名前の隣に自分も腰を落ち着けた。

「でもちゃんと弁護士通して解決したから。大丈夫だよ」
「…ごめん、そんな大変な時に何も出来なくて」

少し声が震えてしまった。今度は俺が顔を合わせられない番だ。地面を見つめて、名前がどう返してくるのか息を殺して待つ。すると意外にも、微かに慌てたように隣から視線が俺の横顔に突き刺さってきたのを感じた。

「違うよ」
「え」

切迫した声色に、俺は跳ねるように隣を見下ろした。すると自分よりも不安気に揺れる瞳と視線が交わり、言葉を失う。

「阿部君が、何かしちゃだめなの」
「は?」
「阿部君は野球をやってくれたらそれでいいんだよ」
「いや…そんなの俺がただの阿呆みてーじゃねぇか」

確かに、俺はあの時名前よりも野球を選んだ。だけどそれはただの恋人として付き合う付き合わないという話なだけで、人としての付き合いを辞めたつもりはない。もしかして見捨てられたと思っているんだろうか。最後に抱き合った時、自分と同じ気持ちでいてくれていると思っていたのは俺のただの勘違いだったという事なのか。
なんだかモヤモヤする。辛い思いをしてきたのは名前の方なのに、この微妙に煮え切らない状況が俺を焦燥感でいっぱいにさせる。自分勝手だと思いながらも、もう少し歩み寄ってくれてもいいんじゃないかとつい口に出してしまいそうになった。

「…ごめん、そうじゃなくて。野球の邪魔には絶対なりたくなかったから」
「だから、それは時と場合によるだろーが。まぁ、つってもあの時の俺が何か出来たかと言われたら何も出来なかっただろうけどさ」

あの頃は何の力も持たないただの子供だった。だからこれは単純に俺の我儘だ。一番辛かった時に、側にいてやりたかった。
あの時、学校側からは転校だと聞いたが今聞いた話から考えても"中退"が正しいだろう。西浦から離れ、どこか知らない遠い土地で母親と怯えながら暮らしていたのかと考えると、俺が泣きたくなってくる。でも、こうして奇跡的に再会が叶ったのだからもう少しだけ我儘を言っても許されるだろうか。

「…名前、今どの辺住んでんの」
「今私静岡なの」
「え、マジ。じゃあなんでこんなとこ…」
「少し前まで職場と母親の病院の往復でずっと忙しくしてたんだけど、この間色々と終わってちょっと落ち着いたの。そしたらなんか、急に西浦の事思い出して」
「終わったって、もしかしてお前のお母さん」
「うん、今までずっとずっと無理して頑張ってきたからね。久しぶりに穏やかに眠ってるお母さんの顔見たら、少し安心した。そりゃ寂しい事には変わりないんだけど、それよりもこれからは頑張らないでゆっくりして欲しいなと思ってるよ」
「…そうか」

名前はそう言うが、やはり寂しい気持ちはあるはずだ。じゃ無けりゃ西浦の事なんかを思い出したりしないだろう。大きな問題は、表面上は解決したかもしれない。それでも心に受けた傷はそう簡単には消える訳もないだろうし、恐らく病気か何かで入院していた母親の世話も終わってしまったとあれば、今の名前にとっての心の拠り所というのは果たしてあるんだろうか。

「…なぁ、名前。俺にまだ気持ちはあるか?」
「え、」

今ならば、少しは役に立つんじゃないかと思わず口をついて出た。案の定名前は目を丸くして言葉を失っているが、俺はもう躊躇う事を止めた。

「あの頃に戻りてぇってわけじゃなくて、俺はまだあの時から一歩も進めてねぇっつーか…これは俺の我儘だけど、名前の気持ちが少しでもまだ俺に残ってんなら、今度こそ、一緒に歩かせて欲しい」

一気に言葉を紡いだ。息をするのも忘れて、俺は名前の不安気に揺れる瞳を覗き込む。

「…ごめん、ありがとう」
「それどういう意味」
「…阿部君の気持ちは本当に嬉しい。私だってずっと阿部君だけを好きだったよ」
「過去形やめろ」
「うんごめん。でも私まだこっちに来る勇気は出ないし、仕事もね、今のオーナーさんが、高校中退の私なんかを今年正社員に上げてくれたの。恩は返したい。お母さんと暮らした家もすぐには捨てられないし」
「ーーッ、でも、」

言葉に詰まった。ただ一緒にいたいだけなのに、それはこんなにも難しい事だっただろうかと、初めて思い知らされる。

でも、もう俺は判断を誤ったりしない。

「…お前の気持ちはわかった。じゃあ質問変える。俺の事、信じられるか」

質問の意図がわからないのかキョトンとして、俺の顔を無言で見つめてくる名前。気付いているのかどうかわからないが、先程からようやく視線がよく絡むようになっている。それだけでも俺にとっては嬉しい事だ。

「…え、うん、まぁ…疑ったりはしないけど」
「良かった。んじゃ、一先ず遠距離恋愛から始めっか」

ずっと暗い顔をしていても埒があかないし、と俺は少し声のトーンを上げて名前にスマホを差し出して見せた。まずは連絡先交換からだ。そこからまた始めよう。

「嫌じゃねぇんだよな?」
「…えっ…と…でも…いいの…?」
「もう十年以上も待ったんだ。今更だろ。もう変えるなよ」

半ば強引に連絡先を登録した。名前は微かに瞳に涙を浮かべて俺の番号が登録されたスマホを大事そうに両手で抱えている。この反応は、決して悪い意味では無いはずだ。

名前の気持ちの整理がつくまで待つ、なんて受け身かつ自己中心的な考えは微塵もない。今度こそ、俺の方から歩み寄って二度と手放さない。今はまだ、二人の気持ちは揃ってはいないかもしれないが、今のあるこの状況が当たり前に続くとは限らないという事はもう痛いくらいに理解している。

「…名前はもう充分過ぎるくらい頑張ったんだから、今度は俺に頑張らせてくれ」

そう言うと、名前が両手で顔を覆ってはらはらと泣き出した。たまらず手を伸ばし、震える肩にそっと触れる。釣られて一緒に泣いてしまいそうになるのを耐えながら俺は改めて、決意を固めた。


俺が会社に提出した"異動願い"が受理されたのはそれから約一年後の事だった。





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