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Raison d'etre



※ 「Greensleeves」etc.と同一夢主




やらかした。

目覚めてまず、僕はそう思った。
「頭が痛い」とか「何でこうなった」とか考える事は山程あるけど今一番重要なのはそんな事じゃない。半裸の僕とその隣でいまだ夢の中にいる最近漸くパートナーになってくれた名前のベッドの中でその彼女と一緒に寝ているというこの状況。誤解をしない方が難しいであろうこの状態に、僕は頭を抱えるしか無かった。パートナーだから良いんじゃない?と悪魔の囁きが聞こえなくはないけど、そういう問題ではない。
実はまだ僕達は付き合い始めてから一度も身体を重ねていないのだ。勿論一緒のベッドで寝たこともない。手を繋いで、キスはした。でもそれだけ。それだけでもう僕的には超超幸せだし、ちょっと青臭いかもしれないけど色々焦って順番を間違えたりしたくない。嫌われたくないし。
なのになぜ。

いやでも、もしかしたらこれはよくある"実は別に何もなかったです"パターンなんじゃないか。
ああ、そうだ。きっとそうだ。だって僕上はともかくとしてズボンは履いてるし、名前だって洋服着てるし。そう思うと、少しだけ気持ちが楽になった。
楽になったところで、漸く昨日のことを振り返る余裕が出てきて、痛む頭を手で押さえながら思い返してみる。昨日の夜、硝子の誘いで伊地知と七海と居酒屋に飲みに行っていた。勿論僕は下戸だからお酒は一滴も飲んでいない。先に伊地知が硝子に潰されて、早く帰りたがっていた七海がこれ幸いにと伊地知を送る名目で、一緒に店を出た。その後しばらくは僕と硝子の二人で飲んでたんだけど、やっぱり名前がいないとつまらなくて、名前の任務終了の連絡を今か今かと待ちながら硝子と時間を潰していた。

「それから…どうしたんだっけ…」

何故かそれ以降の記憶が無く、思わず声に出して呟くとベッドの中にいる名前が身動ぎをした。ヤバい、起こした。そう思ったが時既に遅く、淡く透き通った翠の瞳と視線が絡まってしまった。

「お、おはよ」
「おはようございます…」

寝ぼけ眼でゆっくり数回瞬きを繰り返した名前は、のっそりと起き上がってベッドの上に体育座りをしていた僕と目線を合わせるように向き直った。

「大丈夫ですか?」
「えっ、何が…つーか、名前こそ平気?」
「…ビックリはしましたけど…大丈夫ですよ」

うーん、その返答じゃ実際のところどうだったのかわからない。どうしよう。はっきり聞いてしまおうか。
そう僕が頭の中で必死に考えを巡らせていたら、名前が先にベッドから降りてしまった。ゆっくり伸びをして、携帯で予定や業務連絡を確認している。このままではいつも通りに名前は顔を洗って朝食の準備を始めてしまう、と僕は焦って身体を僅かに乗り出して彼女を呼び止めた。

「ちょっ、」

しかしそれ以上言葉を紡ぐ事が出来なかった。名前が不意にその場に屈んで、ビックリするものを床から拾い上げたせいだ。僕の見間違いでなければ、名前の手に握られているのは彼女自身のブラジャーだった。

あー、これはもう確定です。やっぱりやらかしてますね。
僕は意を決してベッドの上で居住まいを正した。

「名前」

流石に声のトーンが変わったから妙だと思ったのか、名前が不思議そうに振り返る。

「どうしました?気分でも悪いです?水持ってきましょうか」
「最高の気分では無いけど、僕の体調は今はどうでも良い。名前、ごめん。ホントに。こんなつもりじゃ無くて」
「何がです?アルコールに耐性もないのに飲んで潰れたこと?」
「それもあるけど…えっ、僕酒飲んだの?」

全く予想もしていなかった言葉が聞こえて、思考が一瞬停止する。でもそうだ、よくよく考えたらそうでもしないと今の状況の説明がつかない。この僕が酒以外で意識を失う事なんてなかなか無いだろう。
そこまで考えて、僕はまた更に頭を抱えた。僕は昨日、大切な彼女に同意も得ず、酒の勢いで無理矢理身体を繋げるという最低最悪な行為をしてしまったという事だ。

「僕…ソフトドリンクしか飲んで無いと思ったんだけど…いつ飲んだんだろう」
「最後は何飲みました?」
「記憶があるのはオレンジジュース。伊地知が頼んだくせに飲む前に寝たから僕が貰ってやった」
「……それはスクリュードライバーですね」
「は?マジ?」
「硝子さんが伊地知の頼んだ酒勝手に飲んで潰れたって言ってましたよ」
「ちょっと…何でお酒って知ってたのに止めてくんないの」
「面白いからって」
「硝子の奴…」

マジで伊地知は後でシメる。
でも今はそれどころじゃ無い。とにかく名前の信頼を取り戻さないと僕は生きていけないのだから。
僕は改めて、名前を懇願するように見上げた。

「…名前、どうしたら償える?」
「え?別にいいですよそんな」
「いや、ダメだって。こんなつもりじゃ無かったんだけどさ…僕本当に記憶無くて」
「お酒弱いんだから仕方ないですよ」
「そんな…仕方ないって言葉で片付けられるような問題じゃ無いだろ!」

僕はつい、勢い余って声を荒げてしまった。だってそれほど名前の関心は薄い。僕を気遣って気にしてない素振りを見せているのかと思っていたが、これは本当に彼女と自分とで随分な温度差があるのだと気付いた。

「声を荒げる程ですか?五条さんなら、酔った勢いで無くてもこんな事日常茶飯事では?」
「…んなわけ無いだろ」

思わず声が低くなる。名前とパートナーになれることに自分だけが舞い上がっていたのかと思い知らされた。思い返せば名前の方からアクションを起こしてきた事は殆どない。惰性で付き合ってくれているのか、はたまた同情か。何にせよ、こんな事なら僕を責め立ててくれた方がよっぽど楽だ。

「五条さん…?」

不意に名前の右手が近付いてきた。考え込んでいた僕はそれに一歩反応が遅れてしまった。

故に、名前の指は僕に触れる事は無かった。






「バカじゃないの」
「知ってる…でもさー…」

無限によって名前を拒絶するような形となってしまった直後、僕は居ても立っても居られず硝子の所へ行くと言って家を飛び出した。そして今に至る。

「でももう、オートにしてんじゃないの」
「何?」
「無限」
「あーまぁ基本は。でもその時々で変わるから。色々難しいの、僕の力は」
「あっそ」

僕の話なんか微塵も興味がないのか、ブラックコーヒーを片手に職場のデスクの上に書類を広げている。

「大体さー何で止めてくれないワケ?僕お酒ダメなの知ってるでしょ」
「自業自得だろ。そのくらい自分で気をつけなよ」
「僕どんなだった?自分で帰ったの?それとも硝子が送ってくれたとか?」
「私が送るわけないでしょ。面倒くさい。伊地知の酒を半分くらい飲んだところで一回真っ赤になって目回したんだけど、暫くして目ェ座らせて帰るっつって飛んで帰った。ああそうだ、お前の分、名前が立て替えてるからちゃんと返しときなよ」
「うっそマジ…?名前いつ来たの?」
「お前が飛んでった後すぐ」
「僕最高に格好悪いじゃん…」
「格好良かった事があったか?」
「硝子の審美眼を疑うね」
「…復活したならもう帰れ」
「いやだーどんな顔して名前に会えばいいかわかんない」

机に突っ伏してイヤイヤと首を振って見せる。おちゃらけて見えるかもしれないが、これでも結構なダメージを受けている。やっと、やっと掴んだのに。

「離したくないんだったら、名前ときちんと話す事だな」
「僕だってそうしたいけどさ…名前ってば僕が名前と付き合ってることに対して暇つぶしって思ってるというか…僕がいつか飽きると思ってる節があるんだよね」
「そりゃ仕方無いんじゃないの。お前の素行を思い返せば当然の報いだ」
「僕はこんなにも大事にしてるのに。だから初めては絶対良いムードでしっかりお膳立てして僕の事しか考えられないくらい最高の一晩にするつもりだったし」
「キモ」
「というか僕が名前に飽きるとかぜっっったいあり得ないわけで。毎日毎日気持ちが増していって、もう閉じ込めときたいくらいなのに」
「重」

落ち込んでる時くらい慰めてくれてもいいのに、硝子は弱った心にグサグサ平気でナイフを突き刺してくる。

僕は今まである程度の事はどうにかなってきたし、これまでの人生、僕に媚を売る女を適当に相手にしてきた事しかない。勿論それを名前に求めているわけでは全く無くて、こういう時にどうしたらいいのか検討も付かないのだ。だからこそ、アイツが隣にいたらこんな事も相談できるような関係になっていたんじゃ無いかと無意味な事を考えてしまう。

「…帰る」

いつまでもここで、時間を無駄にするわけにもいかない。僕は意を決してこの場から立ち去る事にした。



硝子の元から離れて、僕は無意味に遠回りしながら歩いて帰った。今まで何でも自分の思う通りに物事が進んできて、しかもそれが当たり前だと思い込んでいた。しかし「自分が救えるのは他人に救われる準備がある奴だけだ」と気付かされた傑の存在によって、自分の気持ちばっかり押し付けても何も変わらないのだと今は思えるようにもなった。だからこそ、特に名前との付き合い方は慎重になってしまう。愛があれば何とかなるとかそんな夢物語を言える程若くも無いし、呪術師という特殊な環境がそれを許さない。でも僕にとって名前はもうかけがえの無い存在で、お互いいつどうなるかわからない環境に身を置いていることを理解しているからこそ、二人の限りある時間を大切にしたいと思う。

「…やっぱりちゃんと話そう」

遠回りをしたおかげで頭の中を少しずつ整理できた。僕は家を飛び出してきた時と比べて僅かに気持ちが軽くなったのを感じながら、スマホをポケットから取り出した。

「あれ?」

画面をタップすると、今まさに連絡を取ろうとしていた人物からメッセージが届いていた。

"仕事が入りました。京都まで行ってきます。"

どうやら僕が硝子にグダグダ愚痴をこぼしていた間に送られてきていたようだ。ああ、タイミングが悪い。僕が漸く決心したのに肝心の名前は今はもう新幹線の中だろう。とは言えこれは仕方がない事だと自分に言い聞かせ、名前の事だからすぐに祓って夕方には帰ってくるだろうと、僕は"わかった"とだけ返事を返した。








結論から言うと、名前は日付が変わっても帰って来なかった。
呪霊に手こずっているのか、別の要件でまだ京都にいるのか。それとも帰ってきているがどこかで誰かと会っているのか。何にせよ名前の住居は今やここしか無いし、帰らないなら帰らないで何かしらの連絡はあるはずだ。なのに一向に電話もメッセージも来ない。
初めは「京都の問題くらい京都の連中で片付けろよ」と思っていたが、よくよく考えれば名前を要請しなければならない程の呪霊ならば、そう易々とは片付かない可能性が高い。こんな事なら高専に名前の任務内容を確認するんだったと自分の考えの甘さに苛立ちを覚えていると、玄関のロックを解除する音が耳に届いた。
僕は一瞬腰を浮かせたが、あえてリビングのソファの上に座ったまま名前がやってくるのを待った。

「五条さん…まだ起きてたんですか」

ビックリしたような、少し居心地の悪そうな顔を向けた名前。僕は思わず眉を顰めてため息をついた。

「第一声がソレ?」
「……何か気に触る事言いました?」

僕の苛立ちを感じ取ったのか、名前はソファに近づく事なく寝室へと姿を消した。風呂に入るつもりなのだろう、着替えを持ってすぐにまた姿を現した名前を僕は入り口で待ち伏せる。

「何ですか。私お風呂に入りたいんですが」
「何ですかじゃないだろ。まず僕に言わなきゃいけないことあるんじゃない?」
「…別に何も」
「日付跨ぐとか聞いてないし、普通連絡の一本くらい入れない?」
「何でそんな事…」

一瞬翠の瞳が揺らいだような気がしたが、それよりも訳の分からないと言った表情で見上げてくる名前。
こんなにも自分の気持ちは伝わっていなかったのかと、あまりの悔しさに僕は下唇を強く噛み締めた。ちゃんと二人で話そうと決めて帰ってきたのに、何を話さなければいけなかったのかすっかり頭から消え落ちる程今は泣きたい気持ちと苛立ちでいっぱいだ。
一度、距離を置いてみるべきなのか?と頭の片隅の冷静な部分でそう思いはするが、嫌だ、離れたく無いという気持ちばかりが溢れ出てくる。

「…ねぇ、どうしたら僕の気持ちが伝わる?それともわかった上でのその態度なわけ?」
「その態度ってどう言う意味ですか」
「見たまんまだよ」

何度目かわからないため息をついて、名前を壁際へ追い詰める。所謂壁ドン状態だが、今はそんな甘い雰囲気は微塵もない。

「…何故そんなに怒っているのかわかりません。私は、五条さんが顔を合わせたくなさそうだったから敢えて時間をずらして帰ってきただけなのに」

そう言った彼女の肩は少し震えていて、一瞬怒りで身体を震わせているのかと思ったが、すぐに俯いた名前の様子からして泣きそうなんだと悟った。
意味がわからない。泣きそうなのはこっちの方だ。顔を合わせたくなさそうって何?

「…もしかして、無限で弾いたからそう思ったわけ?」
「……」
「無限の件はごめん。普段名前から僕に触れてくる事自体珍しいのに、その上あの時はちょっと頭の中ぐちゃぐちゃで、反応が遅れた」
「いいんですよ、気を使わなくて。誰だって、私みたいな人に触られるのは抵抗があるはずです」
「だから!違うって!」

俯く名前の顔を無理矢理上げさせて、僕は目隠しを取っ払った。

「わからないのは名前の方だ。やっぱり僕と一緒にいるの辛いわけ?惰性で付き合ってくれてんの?それとも情け?僕の気持ちは一ミリも伝わってないってこと?」
「惰性とか情けとか、そんなもので付き合えるほど私は器用じゃないです。でも…今の五条さんと一緒にいるのは正直つらい」
「………そう」

顔を上げさせる為に掴んでいた手に、僕は力を込められなくなり、静かに下ろした。もうこれ以上は僕の我儘だ。完全に距離を置かれてしまうよりは、恋人としてではなくても側にいてくれる可能性が少しでも高くなる方を選ぶしかない。

「…わかった、ごめん。短い間だったけど本当にありがとう。僕は君にたくさん救われてきたのに、僕は君に何もしてあげられなかった」
「五条さん…」
「でもこれ以上名前がつらい思いをするのは耐えられないし…別れよう。これまで通りの関係ってわけにはいかないと思うけど、同じ仲間として一緒にいられたらそれでいいから」
「えっ」

僕の手の支えが無くなっても僕を見上げ続けていた名前の瞳が大きく見開かれた。おそらく心底泣きそうな顔をしているであろう僕の顔をじっと見つめられる。

「…でもね、一つだけ言わせて。何かあった時は絶対に責任取るから。覚えてない事を理由に放ったらかしになんかしない。子供に父親の顔を見せてあげられない事は申し訳ないけど、金銭面とかその他諸々、絶対に苦労させないようにするから。ちゃんと僕にも言ってよ」
「え……えっ…?」

少しでも安心させてあげられるように無理矢理口角を上げて見下ろすと、何故か名前は先程とは打って変わってキョトンとした顔で瞬きを何度も繰り返した。
何、そんなに僕の言った事が珍しいわけ。そこまで甲斐性無しに見えてるの。

「五条さん、今何か変な事言いましたよね」
「変って何。僕は人として当たり前のことしか言ってないつもりだけど」
「…いえ、言葉だけ取ればそうなんですけど、今の私達には似つかわしく無いというか…やっぱり何か勘違いしてます?」
「だから何が」

こっちは一大決心して別れを告げたというのに、名前はそれに対して一ミリ触れる事なく話題を逸らそうとしてくる。堪らず少し苛々した声で返せば、名前が急に僕の頬に手を滑らせた。

「…私の記憶が正しければ、私達の間に子供が出来るような事はしていないと思うのですが」
「…は?」

今度は僕が驚く番だった。
それは酔っ払ってるながらに避妊してたと言う事だろうか。いやそれでも100%じゃないし。

「まさか酔っ払って私に手を出したと思ってます?」
「いやだってあの状況…最初は僕だって流石に無いよねとは思ったんだけど名前ブラだって脱がされてたし…」
「脱がされましたよ。でもそれだけ。脱がせた後しばらくしてそのまま寝落ちました」
「………」
「子供が出来たんじゃないかって心配しました?」
「うん…」
「大丈夫ですよ。そんな五条さんの邪魔になるような事は死んでも回避しますから」

だからそんなに考え込まないでください、と名前は僕の頬から手を下ろしながらいつものポーカーフェイスで答えた。そこで僕はまた、折角落ち着いた熱が頭に上ってくるのを感じた。

「…いい加減にしろよ。何なのさっきから。僕の事何だと思ってるわけ?名前が僕といるのが辛いっていうからじゃあ少し距離置こうかと一大決心したのに、僕が邪魔に思うとか何?いつそんな事言った?」

凄い呪力の圧だろうなと自覚はしている。だけどどうしても名前とのこのすれ違いを正したかった。だったらもう少し言葉があるだろうと後々考えれば思い至るが、今の僕にはそんな余裕は無い。

「何故そんなに怒るんですか…?私の言動が気に食わなければいつでも捨てていただいて構いません」
「だから!!」
「……私は…五条さんのお荷物にだけはなりたく無いんです」
「……」

そんな事言わないで欲しい。傑と同じ別れ方をするなんて二度とごめんだ。お荷物とか邪魔だとか。最強だからなんだと言うのだ。みんな僕から勝手に離れていこうとする。

「だから、私は五条さんの気持ちを優先し…えっ、五条さん…?」

言葉の途中で名前が急に声色を変えて目を瞬かせた。一体どうしたのかと思えば、凄くあたたかいものが両頬の上を流れ落ちた事に気がついた。

「え…」

もしかして、僕泣いてる?
まだ少しどこか他人事のように感じながらも僕は、咄嗟に自分の頬に触れてみた。確かに、しっかりと濡れている。
きっといろんな感情が重なりすぎてオーバーヒートを起こしたんだろう。"最強"だなんて聞いて呆れる。

「…ごめん名前。なんか僕色々限界っぽい」
「限界って」
「僕はやっぱり名前が必要だ。別れるなんて出来ない」
「…」
「名前はもしかしたら嫌なのかもしれないけど、辛いかもしれないけど、もう一人にしないで欲しい」

一度流れ始めた涙はそう易々と止まるわけもなく、内心格好悪いなと思いながらも己の感情に素直に従った。名前の肩を掴んで懇願するように頭を下げると、ややあってか細い声が聞こえてきた。

「違うんです五条さん。それを言うのは私の方で」
「…?」
「どう考えても、一人にされるのは、置いて行かれるのは私の方でしょう」
「違う」
「いいえ、違いません。だからね、以前の私は周りの人間と深く関わる事を避けてきました。でも高専のみんなに、貴方に出会って日に日に気持ちが揺らいでいった。もっと隣にいたいと、そう思ってしまうのに私は生まれ持った力をいまだに制御も出来ない。いつ大切な人を傷つけてしまうかもわからないから、結局私は自分から人と距離を詰める事がどうしても出来ないんです。だから私は五条さんに迷惑だけはかけないようにしようと、それだけに徹していました」

いつに無く饒舌に話し始めた名前に、僕は少しだけ気持ちが落ち着いてきた。

「…ねぇ、さっきからよく言う"迷惑"ってどういう意味?」
「術師達を牽引していく五条さんにとって、足枷にならないようにという意味です」
「自分を卑下し過ぎじゃない?」
「そんな事はないです。客観的に見て、私なんかが依存していい存在では無いんですよ」
「…依存…してくれていいのに」
「ダメです。重い女こそ一番五条さんにとって面倒でしょう?こんなにも私に貴重な時間と気持ちをわけてくれているのですから、私は五条さんが望むようにしたいんです」

泣いたせいか頭の中もスッキリしてきたおかげで、名前の言いたい事がなんとなくわかってきたような気がした。要は僕が離れて欲しいと言えば離れていくし、僕が遊びとして触れ合えばそれを遊びとして受け入れるということなのだろう。
もうホントに、僕達はどれだけすれ違い続けていたのか。いや、僕が自分の気持ちを押し付けるばっかりで、相手の気持ちを考えようともしなかったせいだ。傑にもよく注意された。

「…そっか、ありがとう」

名前の気持ちを全部とはいえないがようやく汲み取る事ができ、僕は一旦それを受け取る事にした。そうでもしないと次のステップには進めない。不覚にも僕が泣いてしまったおかげか、名前の方にも僕がどれだけ本気なのか少しくらいはわかってくれたようだし、このチャンスは逃したくない。

「…ねぇ名前、僕も君の気持ちを少し勘違いしてた」
「私の?」
「そう。まぁ正直、僕が名前と付き合ってるのは遊びの一環だと思ってるだろうなとは薄々感じてた。だから名前もあえて深い付き合いをしないようにしてるのかな、と。だから僕はとにかく自分の気持ちを100%伝えていけば自ずと僕が本気なのが伝わって名前も同じように気持ちを返してくれるだろって思ってたんだよね。でも違ったね。名前は僕の事と呪術界の事だけを第一に考えて、自分の事は二の次だ。いや僕の事を考えてくれるのは嬉しいんだけど、名前がこんなにも自分の気持ちを押し込めて生活してたなんて思いもよらなかった。気付けなくてごめん」

高校の頃の自分が今の自分を見たらどう思うだろうか。こんなの俺じゃねぇとか言って、嫌そうな顔をする自分が容易に想像できた。その位情けない表情をしている自覚は大いにある。でもそれで良いと今は思える。何故かわからないけど、名前の前では変な虚勢は張らずにありのままでいたいと思うし、名前にもそうであってほしいと常に思っている。
それでも、お互い子供では無いから時には気を使う事も大切だ。でもどちらか片方だけが自分を犠牲にしたり、逆に我を通しすぎたりするのはフェアじゃない。これからずっと二人で一緒にいられるようにするためにも、難しい事だけど理解しあって歩み寄る事が大事なんじゃないかと思う。
その第一歩としてまずは、名前に自信を付けさせる所から。この僕がどれだけ名前の事を必要としているか、名前の存在がどれだけ僕に良い影響を与えているのか。これをまずは知ってもらって、どれだけきちんと受け取ってもらえるかが重要な鍵だと思う。そうしたら、名前だって自分の気持ちを口にしやすくなる筈だ。次こそは、もう間違えたりしない。

「そんな…私は当たり前の事をしているだけで…どう転んだって私は五条家にとって何の得にもならないんですから」
「五条家は今関係ない。僕が名前を必要としてるだけなんだから。何なら、名前ん家に婿入りしてもいいよ」
「…冗談でもそんな事言わないでください」
「マジだから僕。そんくらい大切って事、名前が」

そう言って口角を少し上げながら身を屈めたら、なんとあの名前が少しだけ頬を染めた気がした。恥ずかしそうに視線を泳がせて、顔を隠すように右手を口元へ持ってきた。それがまた何とも可愛い。

「…僕の気持ち、わかってくれた?」
「……本当に?私なんかが必要なんですか?」
「当たり前だろ。私なんかとか言うなって」
「私は…夏油さんのようにはなれません」
「それも当たり前。傑は傑。僕のたった一人の親友。だから傑の代わりを探してるんじゃないんだよ。名前は名前でしょ。僕が一生を捧げてでも大切にしたい人」

理由は自分でもあまりよくわかってない。でも心からそう思っている。傑の代わりなんていないけど、名前の代わりだって勿論いない。こういうの、骨抜きって言うんだろうか。

「…ごめんなさい」

名前が唐突に俯いた。
え、どう言う事。もう拒絶の言葉は聞きたくない。僕は名前の発した言葉に体が震えるのを感じた。もうこれ以上何も言わせないように腕の中に閉じ込めてしまおうかとも考えたが、嫌われたくなくてそれすらも迷いが生じる。そんな葛藤の末、僕は黙って名前の言葉を待ち続けた。するとしばらくの間を挟み、ようやく次の言葉を僕の耳が捉えた。

「まだ、五条さんの気持ちを全てそのまま受け取る覚悟は無いのですが…それでも今まで失礼な事をしてしまっていた事は反省したいと思います」
「…うん」

思っていた言葉とは違ったが、良くない方向には進んでいない気がして、僕は続きを促した。

「…私も、嬉しかったんです…実は。でもそれを口に出すのは怖くて。結局自分が傷付きたくなくて予防線を自ら張って自分を守っていたというか…狡い人間なんですよ、私。そんな私でも…本当に大丈夫なんですか…?」
「狡くなんか無いでしょ。名前の境遇を考えるとそうならざるを得ない所もあるだろうし…まぁ相手がこの僕だからね、仕方ない」
「…本当にごめんなさい」
「謝るなって。少しずつでいいから、僕の事信じてよ。そして、自分の事をもっと信じて」

無性にキスがしたくなり、俯いたままの名前を僕は不意に抱き上げた。

「わっ、」

慌てる名前を無視してソファーへ運ぶ。僕が先に座って膝の上に座らせるようにして向かい合わせにさせた。途端に視線が絡まって、驚きと不安、きっと他にも色んな感情が混ぜこぜになって揺れている美しい翠の瞳が目に映った。鮮やかで奥深くから発色する濃いグリーンの中に、ちらちらと現れる青みがより一層彼女の瞳を美しくしていて、見る角度や光によって変化する、まるでブルーグリーントルマリンのような瞳にはいつも心を奪われる。僕の目を綺麗だと言ってくる人も大勢いるけど、思わず見入ってしまうような不思議な魅力は名前しか待ち合わせていないと思う。

「五条さん…」

何故急に場所を変えたのか、何故向かい合わせにさせられたのか、何も理解していない名前をほったらかしにして思わず見惚れていた僕は、彼女の声で我に返った。

「あ、ごめん。あんまりにも綺麗だったからつい」
「何が…?」
「名前の瞳が」

ちょっとキザすぎたか?と思いはしたが、今の名前にはとにかく言葉にして伝えていくのが1番効果的だろう。案の定、また少し照れてそっぽを向いた。

「……あー可愛い」

我慢できずに僕は名前の目尻に唇を寄せた。そしてそのまま小さく噤まれた唇へと移動しようとしたのだが、不意にある気持ちが頭をよぎり、既の所で僕は動きを止めた。名前もされる事はわかっていたのだろう、妙な位置で動きを止めた僕に対して不安気な雰囲気が伝わってくる。

「五条さん?」
「どうして欲しい?」
「え、」
「僕も名前の望むことをしてあげたい。お互いの気持ちを尊重したいから、教えて」
「…いやです」
「言って」
「……ゃ、だ…」
「言って」

可哀想かとも思ったけど、これは訓練だ。名前の求める事を余す事なく僕が実行してあげる。僕は名前のお願いを聞けてラッキーだし、名前はこれによってもっと自信がつくんじゃ無いかと思う。僕天才かな。

「名前のして欲しいこと、全部やってあげたいな〜」
「……」
「…名前」
「……キス、して」
「喜んで」

よく出来ました、とばかりに僕は待ちに待った柔らかい唇へと自分のそれを重ねた。付き合い始めてから何度か重ねてきたが、今日の口付けは今までとは違い心まで充分に満たされるくらい幸せな気持ちになった。角度を変えて、何度も何度も啄む。名前の髪の毛に手を差し入れて反対の手は腰へと回して、体全体を心臓の音が聞こえるんじゃ無いかというほど密着させる。

「…は、っ…ふ」

キスがこんなに気持ちのいいものだったなんて知らなかった。このまま一晩中こうしていたい。何でもっと早く歩み寄ってあげられなかったのか、今更後悔しても遅いがそんな事を考えてしまう。とは言え色々な葛藤があり、長い時間をかけたからこそ今のこの時間があるわけで、名前だって色んな事を沢山考えて悩んで、ようやく一歩ずつ歩みを進めようとしている。

「…このままベッドにもつれ込みたいけど、やめとく」
「どうして…?」
「今日は僕にとってめちゃくちゃ大切な日だから。アレ?それとも続きして欲しかった?」
「い、いいです…このままで充分です」
「あはは、良かった。ありがとう名前」

人の感情というのはなんて複雑で、繊細なものなのだろうか。それは時に面倒で、邪魔になるものかもしれない。でもそれを捨てるわけにはいかないのだと、昔の自分では考えることもしなかっただろうこの感情を、芽生えさせてくれた名前には本当に感謝してもしきれない。


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