(おお振り/阿部)
※連載主
「ドキドキしたい…」
それは唐突に発せられた。
二時間目と三時間目の間の短い休み時間に、次の授業の準備をしていた俺は一瞬手を止めて、悲痛な叫びとでも言いたげな面持ちのチームメイトに一瞥を投げた。
「なぁー聞いてる?阿部」
「聞いてない」
「高校生活って一回しかないんだよ?野球も勿論大事だけどドキドキも大事だろー?」
無視を決め込もうと再び鞄を漁っていると、なぁなぁ、とウザ絡みしてくる水谷。いきなり何なんだ。さっきの英語の教科書にコイツの変なスイッチを入れてしまうようなものでもあったのか。
「何喚いてんの」
授業の準備も終えて、いよいよ水谷の相手をしなくてはならないのかとウンザリし始めていた所に、ちょうど良い奴がやって来た。
「花井ー聞いてよ阿部が無視すんの」
「そんなのいつもの事だろ」
「ひでぇ…俺はちょっと恋バナしたいだけなのに」
「はぁ?恋バナ?それこそ阿部に一番向かない話じゃねぇか」
「だってぇ、彼女いるのコイツだけだし。俺はドキドキしたいんだよ!」
あ、花井もここに来た事後悔してるな。変なものでも見るような目つきで水谷を見下ろすキャプテンに一瞬同情の念が湧かないでもないが、それよりも俺にまた矛先が向くよりはこのまま花井には犠牲になってもらう方が今は大事だ。
しかし、変なスイッチが入ったままの水谷は俺に何故か執拗に絡んできた。彼女と部活帰りにデートがしたいとか、女子と連絡を取り合いたいだとか、どうやったら告白されるのかとか。そんなの俺が知るわけ無いし、部活帰りにデートなんかしてる余裕があるなら素振りした方がいい。そう返すと、じゃあ俺の経験談でいいから青春話を聞かせろとせがんで来た。
「はぁ…わかったドキドキ出来りゃあいーんだな」
俺は深いため息をついて弄っていた携帯を机の上に置いた。
「九回裏ツーアウト満塁、一点差で打者は自分」
どうだ、ドキドキすんだろ。
「……うわっ、やめろよめっちゃドキドキするじゃんか!想像しちゃったよ!」
「良かったじゃねーか」
「良くないって!ドキドキの意味違うし!」
「嫌なドキドキのさせ方だな…俺まで心臓痛ぇよ」
花井まで青い顔をして胸の辺りを摩っているが、これで水谷も大人しくなるだろうとまた携帯を開きかけた所で、休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。全く、無駄な時間を過ごしてしまった。相変わらず水谷は不貞腐れているが、次の授業の教師が入ってきた事によりこの話はこれっきりとなった。
***
「ふーん、私がトイレに行ってる間にそんな面白い話が…」
「何も面白くねーよ。何なんだアイツ急に」
その日の夜。珍しく私の家に二人で帰って、二人で夕食を食べた。お母さんはよくある事だけど、お姉ちゃんまで今日は仕事で居ないと聞いていたから正直有難い。後片付けも二人でして、私の部屋で明日の課題を進めていたら、隆也が徐に今日の出来事を話し始めた。多分英語の教科書を見たせいだと思う。
「千代ちゃんへの想いが募りに募った結果かな…」
「は?誰?篠岡?何で」
「あっ、ごめん気にしないでこっちの話」
普通の人間なら完全に水谷君の気持ちを察してしまうほどハッキリと口に出してしまったが、さすがはそっちの方面に鈍いうちの捕手様。微塵も気付かず、そして気にする様子もなく、再び教科書に意識を戻した。というか今ので擦りもしないって逆に凄い。
「終わったか?」
「もうちょっと」
先に課題を片付けたらしい隆也は、私のベッドを背もたれにして携帯を弄り始めている。そんな横顔を何とは無しに無言で眺めていたら、不意に妙な気持ちが湧いてきた。
「ねぇ隆也」
「なに」
「ドキドキさせてあげようか?」
「……」
「反応してよ」
「いや唐突過ぎて意味わかんねーから」
「全然唐突じゃないよ。さっきの続き」
驚いているような呆れているような、そんな不思議な表情でようやく隆也は携帯から顔を上げた。とは言えジリジリと躙り寄る私から距離を取るつもりは無いらしく、何をされるのかと寧ろ私の言動に意識が強く向いてるようだ。
とは言え、これと言って特別凄い事が出来る訳でもなく、私はひたすらに隆也の瞳を見つめながらゆっくりと、顔を近づけていった。キスをするわけじゃ無い。ただジッと見つめ合い続けるのが意外とドキドキするものじゃ無いかと考えた結果だ。それなのに。
「……な、」
暫くは私の目線から逸らす事なく無言で見つめ返していたのに、徐に隆也の方から軽く唇を触れ合わせてきたのだ。リップ音すら響かない程ほんの僅かに重なった唇は、すぐにまた元の距離感に戻り、私は一瞬呆けてしまった。パチパチと瞬きを繰り返した後、違うそうじゃない、と私は慌てて隆也に詰め寄る。
「ダメだって!そうじゃないよ」
「え、違ェの?待ってんのかと思ったから」
「キス待ちってどんな状況よ…もー、これじゃいつもと一緒じゃん。ドキドキさせるって話だったでしょ」
「ハイハイ、ドキドキしました」
「棒読み」
別に期待はしていなかったがあまりの隆也の反応の薄さに私ももういいや、とまた英語のノートに意識を戻す事にした。シャーペンを握り、元の位置に座り直そうとした所で小さく名前を呼ばれた気がした。
「ん、呼んだ?」
「…ああいや、お前もこう…もっと所謂カップルらしい?事やりたかったりするのかなって」
「カップルらしいって何?」
「さぁ。でも世間一般的に言われてることってあんだろ」
「あー…いや、良いかな。隆也といられるだけで楽しいし、野球やってる隆也が好き」
「だよな」
「…ちょっとは照れたりしてよ」
「は?まださっきの続いてんの」
「違うけど」
時々思うが、隆也の自信は一体どこからくるのだろう。羨ましいと思う事もあるが、ここまでくるといっそ清々しい。
「俺も、お前がいて野球があれば今はそれでいいから」
そう言った隆也は相変わらず照れた様子はおくびにも出さない。計算なのか天然なのか、結局最後に翻弄されるのは私の方だ。
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