月が綺麗ですね



 こんな話は聞いていない。こんな話なんて聞いていない、所詮は兄さんの戯言だ。馬鹿みたいな寝言に近い何かに決まっている。
 俺は、懸命に自分に言い聞かせる。目の前にいる少女を前にして、目を堅く瞑り、ただ心の中で繰り返す。

「……信じられない。ほんと、バカみたい」

 少女の、鈴を転がしたかのような澄んだ声が、静かに沈黙を破る。『バカみたい』だと? 俺のほうが言いたい。
 中国から日本に来たら、兄さんが勝手に決めた許嫁が存在していて、その許嫁の家に居候する。そんな話、夢以外の何者でもない。兄さんは、俺が女に興味がないことを知って、くだらない約束でもしたというのか?

 これが本当に悪い夢であるように、と願いつつ、そっと片目を開ける。依然として、桜色の少女の姿は消えていない。そっと自分の脚を抓るが、痛さがじわりと広がるだけだった。
「こっちの台詞だ」
 不満そうに呟き、両目で少女のことを見据える。無駄な肉がついておらず、細い腕には、しっかりと筋肉がついている。明らかなる武道派で、口が悪いこの女が、将来の俺の嫁になるだなんて、やはり信じられない。
 容姿は――悪くない。って、そんなことは関係ないだろう。

「こっちだって、あんたみたいな変人、願い下げよ」
「人の体質にケチをつけるな」
 出会って早々、自分の特殊な体質がバレてしまうという、なんとも雰囲気のない出会いになってしまった。
 その特殊な体質というものは、中国の修行場によって、偶然的に身に着けてしまったものだ。それは――水を被ると、女になるという奇妙なものだった。
 生憎、俺はそんな趣味が元々あるわけでもないし、むしろ迷惑している。しかも、全て兄さんのせいだ。

「俺だって、お前みたいな怪力女は好みじゃない」
「うるさいわね。鍛えないと、好きでもない男と付き合わなくちゃいけないのよ」
 彼女には彼女で、色々と都合があるらしい。だが、そんなことどうだっていい。怪力女と結婚だなんて、こちらから願い下げだ。

 ムスッとした表情は変わらず、少女の翡翠の瞳は、湯気の立つ湯飲みに視線を置いている。
「何なのよ、カカシさんのバカっ」
 兄さんと共に姿を眩ました、彼女の義理の親の悪口を吐き、唇を強く噛む。ほんの少し、目尻に涙が浮かんだようにも見えたが、瞬いた後に確認すると、それは消えていた。
「……おい」
「何よ」
 可愛げのない、威嚇をするような返事に苛立ったが、それを口には出さない。面倒なことは、極力避けたい。
「名前、教えろ」
「はぁ? 何言ってんのよ、知らないの?」
「……興味なかったからな」
「最低!」
 何を思ったのか、彼女は俺の前に置いてある冷水を手に取った。「それは、俺の」と言いかけたところで、彼女の手の中のコップは、俺に向かって振られる。

 水を被った俺は、女の姿になってしまう。知っていてやられると、非常にむかつくな。
「最低はどっちだ、最低は!」
 甲高い声で怒鳴りつける。女になると、やはり気迫というものが足りなくなる。
「ちょっと顔がいいからって、調子乗りすぎよ!」
「あ?」
 その一言で、俺は勝利を確信した。その気持ちを、不適な笑みで表す。彼女は、両手で口を覆う。
「はーん……。お前、俺のこと、そういう目で見てたんだな?」
 顔を真っ赤にして顔を伏せ、「顔だけの話よ!」と大声で否定する。バカだ、こいつはとんだウスラトンカチだ。

 真っ赤になって縮こまるその姿は、いつも以上にか弱く見える。これだから女は嫌いだ。口で言い包めたら、何もできやしない。無力の生物だ。
「顔も可愛くない女に、外見の話をしてほしくないな」
「……っ」
 少し様子がおかしいと感じ、俺は机に膝を乗せて、彼女に顔を近づけた。それでもまだ、長い髪と深く俯いているせいで表情が見えなかったため、指で顎を上げる。
「何よ、泣き顔もブスって言いたいの?」

 ――泣いていた。

 翡翠の瞳は悲しみに濡れ、どことなく色気を感じる。指先で触れていた顎を離し、慌てて後ろに下がる。あまりに勢いがあり過ぎて、襖(フスマ)に頭をぶつけてしまった。
 襖の上に飾られていた絵が落ち、俺の頭に墜落する。頭が割れるように痛く、何も考えられない。
「っつつつ……」
 桜色の長い髪を揺らしながら、少女が部屋を出て行く。しばらくすると、帰ってきた。手には、ヤカンが握られていた。
「もう、バカねぇ」
 そう口で悪態をついているが、表情はふんわりと微笑んでいる。不覚にも、少し可愛いと思ってしまった。

 握ったヤカンを俺の頭の上に浮かせ、乱暴にお湯を注ぐ。あっという間に、俺は男に戻り、だいぶ身長が高くなる。座っている俺としゃがみ込んでいる彼女との顔が、グッと近づいた。
 柔らかそうな唇に目を奪われる。見ていたことを気づかれない程度の速さで目を伏せ、立ち上がる。
「春野サクラ」
「え?」
 空になったヤカンを握り、彼女が立ち上がる。制服のスカートが、ふわりと揺れた。
「わたしの名前。これから、長い付き合いになるもんね」
「長い――!?」
「勘違いしないよでよ! 居候って意味よ……」
 頬を赤くしながら、否定するサクラ。視線を背けた先を、ずっと見つめている。何があるのだろうかと、俺も視線を追ってみた。

 いつの間にか月が出ていた。丸い丸い、満月だ。
「月が綺麗ね」
「そうだな」
 ”月が綺麗ですね“という言葉を、とある偉人が、ある言葉だと訳したということを、俺はあえて言わずにいた。

 ただ、本当に月が綺麗な夜だった。














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