「君は何しに来たんですか」
そう言って困ったような顔をして、はあ、と溜息をつく。んだよ、と小さく呟く声はくぐもって普段より低い。低いと分かるのは常日頃その男の声を聞いているからで、くぐもっていると分かるのは抱きしめて顔を埋めているのが見えるからだ。その腕の中からは、手にした参考書をめくりながらもう一度、溜息。
試しにわん、と一声鳴いてみれば、困ったような表情と目が合って、そしてそれは少し和らいで、どうしました、と呟く。黒子テツヤ。主人の名前を繰り返す。
わん。
言葉はただの一声にしかならない。テツヤに近付いていくと同時に、うわ、とその後ろから声が上がった。
「近っ、近ぇよ」
「当たり前でしょう。僕の部屋はそこまで広くありませんから」
「いやそういう話じゃねぇよ、なんで部屋ん中入れてんだよ」
「この寒いのに外に放り出せって言うんですか?火神くんがそんなに冷たい人だとは思っていませんでした」
「いや、そういう訳じゃ…」
怖がりながらも抱きしめる腕を緩めようとはしない。会話の勢いはテツヤに歩があるようだ。身動きの取れないテツヤの足に飛び乗ると一瞬困ったような目がちらりと見えて、唯一自由に動けるらしい腕がシャーペンを置いて、そっと頭を撫でてきた。
「冗談ですよ。それだけじゃなくて」
そう言いながら前足の間に両手が滑り込んできた。持ち上げられて高くなる視界。テツヤと真正面に向かい合って、目線が合うとふわりと微笑んで、ふいに身体を横に向けた。見上げるとすぐそばには火神。最近テツヤを独り占めする男。嫌いではないけれどあからさまに自分を苦手としているところと、テツヤと二人の時間の邪魔をすることを疎ましく思ったことは何度かある。告白すると過去二回ほど故意に攻撃をしかけたこともある。テツヤがぐい、と腕を伸ばして、鼻先が触れそうなくらいに火神と至近距離になった瞬間、うわぁぁと大きな声を上げながら後ずさっていった。
「予防策です」
「予防って何のだよ!」
「こうでもしないとさっきみたいに別の方向に向かってしまいますから」
そう言いながら床に下ろされる。再びノートを開くと、勉強しようと言ったのは君からじゃないですか、と口にした。
「テスト赤点取ったらまたカントクに怒られんだろ」
「でしょう、だから勉強しましょう」
「分かってっけど、部活休みとか珍しいし」
「それは部活の時間を勉強に当てるために作られた休みですよ」
そうだけど、と言いながら、こちらに近付いて。
「なー黒子」
「なんですか、っん」
小さく音を立てて唇が離れた。自分で称するのも何だけれど、『予防策』を突き付けていたことは意味をなさなかったらしい。
「ちょっと、火神くん、」
潰されそうになって瞬間的に飛びのく。なぜ潰されそうになったのかというと、火神がテツヤを押し倒したからだ。少し離れて振り返ると、首筋に顔を埋める火神と、身じろぎしてこちらを向くテツヤ。目が合った途端にみるみるうちに頬が朱く染まって、そして次の瞬間勢いよく火神を押しやった。けれど力の差は歴然で、いとも簡単に再び火神の下に組み敷かれた。
「っ、いい加減にしてください火神くん」
「あ?」
「2号が見てます」
「んなもん関係…」
「あります」
威勢よく話してみても、組み敷かれたままだと説得力もない。溜息を一つついて、火神がまたテツヤに覆い被さった、その瞬間。ごす、と鈍い音が響いた。
「………あ」
「お前…」
自分が見た光景をもう一度確かめる。テツヤが火神を殴った。…という程の力も意志もないのだろう、火神の頬には跡など残っていない。テツヤは自分から手を出したのに謝ることもなく、火神は火神で不愉快そうに眉をひそめている。
「…勉強が進むまで、離れましょう」
「…………わーったよ」
そう言って火神は立ち上がると、テーブルから遥か離れたドアのところまで下がって教科書を開いた。土台がなくて書きにくいのだろう、ノートを何度も持ち直しながら。テツヤはテーブルに戻って参考書に目を通している。その距離およそ2メートル。二人がここまで離れるのも珍しい。会話はなくお互い目を合わせようともしない。
その時間はしばらく続いた。
部屋に響くのは時折止まりながら走るシャーペンの音と、時計の秒針と、自分が歩き回る足音だけ。わざと火神の前を歩いてみても、一瞥しただけでそれ以上は何も言わない。普段なら先程のようにぎゃあぎゃあと騒ぐのに。珍しい。
カリ、カリ、
ふと、テツヤのシャーペンの音の進みが遅くなった。
カリ、
テツヤのシャーペンの音が、止まった。
「火神くん」
沈黙を破ったのはテツヤだった。
ノートから顔を上げて火神のほうを見遣る。それでも火神は意図してか、教科書を見る顔を上げようとはしない。
「火神くん、」
「…何だよ」
「ここの英語教えて欲しいんですけど」
「…あー、俺文法とか出来ねぇから」
そう言って目すら合わせずに。
「…そうですか」
見上げると、テツヤの顔は悲しげに歪んでいるように見えて。
分からず屋の火神に一声くれてやろうと息を吸い込んだ瞬間、テツヤがふいに立ち上がった。
真っすぐに進んで、火神のもとに向かって、真正面に立つと、
教科書を取り上げた。
「あ?」
突然のことに驚いたのか、火神が顔を上げた、その瞬間。
「すみません」
ばさりと教科書が落ちたのと、テツヤが火神に抱き着いたのはほぼ同時だった。
「やっぱりこっちに、来てくれませんか」
こちらからはテツヤの背中しか見えない。それでも、彼にしては珍しく力いっぱいしがみついているのが分かる。
こちらから見えるのは火神の表情だけ。一瞬眉をひそめてそして、溜息を一つついて。
「…お前から来てんじゃねーか」
その背中に腕を回した。
そうですね、とテツヤが呟いて、そして会話はそこで途切れて。抱き合ったまま、数分。
「珍しいことはするものじゃないですね」
ぽつりとテツヤが呟いた。声がくぐもって聞こえるのは、火神の肩に顔を埋めているからだ。確かめるようにゆっくりと話すテツヤの声と裏腹に、火神は間抜けな声を出した。見るとまた不思議そうな顔をして。
「?どういう意味だよ」
「いつもと違って、………寂しかったってことです」
「……あー、そういう」
「……君はもっと国語を勉強した方がいいです」
呆れたように笑うテツヤの声。それに伴って火神も笑って。それでも二人の体勢は変わらない。
「じゃあ教えてくれよ」
「国語ですか?それじゃあっちに…」
「このままがいい」
これじゃやりにくいですよ、角度を変えながら塞がれて言葉は途切れ途切れになる。笑うテツヤの声は嬉しそうなものに聞こえた。勉強は始まりそうにもない、恐らく勉強する気など火神には端からなく。そして今はテツヤさえ。
足音を潜めて近付いていく。こうして火神の身体に擦り寄ってみせても何も言わない、さっきまでああして怖がっていたのが嘘のように。それほど存在感がないとでも?肩ごしに覗いたテツヤと目が合った。嬉しそうに笑う。
この男と一緒にいるようになって、テツヤの笑う回数が増えたのは事実だ。ならばそれでいい。気付いていませんね、音もなく紡いだ彼の口はそう語っていて、だから邪魔などするはずもなく。そう、笑っていてくれれば嬉しいのだ、自分は。彼が。
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接触禁止令が出される火神と耐え切れなくなる黒子、とリクエスト頂きました。
2号も登場させてしまったのですが、二人を一番理解して見守っているのは実は2号なんじゃないかと思います。
ロビン様、素敵なリクエストをありがとうございました!
20121105