「カレシは、俺よりも先に帰ったよ。会わなかったんだ」
『帰る方向逆だしね。カレシ怒っちゃった? 本命にグーパン食らって』
「……どうかな」

 二人して店長から(いちおう)説教をされた後のことを思い出す。
 やむなく事務作業を切り上げて店長が店に出ることになり、残されたスタッフルームで俺たちはお互い黙ったままだった。帰り支度をしながら、俺はそっと横目に見た。応急処置で頬に大きな湿布を貼った横顔。怒ったようにも拗ねたようにも見える、ちょっと子どもっぽい表情をしていた。
 ただ、帰り際、俺が殴ったことに対して「さっきはごめん」と一言謝ると、慧太は、「……いいよ」とだけ、短い言葉を返してくれた。
 そんなこんなで、今。
 手の甲には、未だに痛みのような熱が残っている気がした。喧嘩両成敗の拳骨とはまったく違う、はじめての感覚を俺は持て余している。

『いやー、慧太じゃないけどさ、俺すげえびっくりしちゃった。唯太のマジギレ』
「俺が自分で一番びっくりしてる」
『かっこよかったよ。ちょっと感動したし』

 そんなことを冗談の色なしに言われる俺は、次第にじわじわと羞恥心のようなものが込み上げてくるのだった。店長みたくしみじみされても困るけど、真面目に褒められても困る。
 それに――そうだ、俺あのとき、なんかものすごい恥ずかしいことを口走ったような……。

『友だちだろってさー、あのセリフはほんとかっこよかったわ。俺なんかちょっと泣きそうなったもんね』
「……俺も泣きそう、今。たぶん秋吉とは違う意味でだけど」
『動画撮っときたかったわ〜』
「勘弁して……」

 羞恥心と疲労感がどっと押し寄せ、無意識に手が煙草へ伸びていた。水色のソフトパックから一本取り出してくわえる。

『にしても、慧太って、なんかつくづく不器用だよね』

 濃い紫煙を吐き出していると、秋吉の話題が変わったので俺は密かに安堵した。

『自分の話しないくせに、嘘つけないし隠し事もヘッタクソだし。世渡り下手だし。イケメンのくせに』
「イケメンなのにな」
『あっ、唯太もイケメンだよ!』
「……どうもありがとう」

 苦笑しつつ、秋吉の言葉に頷く。
 俺だって人のことを言えないけれど、慧太は、不器用なのだと思う。
 知り合ったばかりの頃は、誰に何言われてもいつもしれっとしているから、単純にクールな印象だった。強いんだな、と思っていた。でも、なんだかんだいっしょに過ごしていくうちに、わりと短気で、負けず嫌いで、クール……というより、素直じゃないやつなのだとわかった。
 だから、もしかして、わざとしれっとしているんじゃなくて、ほんとうはうまくやれないだけなのかもしれない、と。
 たとえば愛想笑いのひとつで、慧太の世界はだいぶ違っていたかもしれない。むやみに敵視されたり、陰口を叩かれることもなかったかもしれない。

「……でも、慧太のそういうところが俺は好きだけどね」

 愛想がなくて口が悪くて、でも、猫をかぶったりとか、そういう器用なことができない慧太だから、きっと俺はあのときあんなふうに苛立ったのだ。
 ほんとうはそんなにクールじゃない、彼のやさしい性格を知っている。俺にとって慧太は、どうでもよくない友だちだから。

『……俺も、嫌いじゃないけどさ。でも心配になるわ、ほんと。今はとくに』
「……海未ちゃんのこと?」
『唯太も俺も本命じゃなかったってことだ』
「そうだね。あれだけ心乱されてる慧太、はじめて見るし」
『だよね〜!? 乱されてるよね!?』

 肝心の慧太本人がそれに気づいているのかはわからないけど……。と、なかなか恐ろしい発想に思い至ったことは、なんとなくこの場では呑み込んだ。

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