「……こないだ」
無意識に口を開いていた。
「こないだ、俺、海未ちゃん見たよ。男といっしょにいた」
えっ? と、虚を衝かれたような声をあげたのは秋吉だった。それにはかまわず続ける。
「夜に、駅前通りで。飯屋から二人で出てくるところ見た。俺は駅のほうから見てただけだったけど、仲よさそうだった。自転車で二人乗りして帰ってったし」
終電の時間が迫る深夜のことだった。
最初は見間違いかとも疑ったが、そうではなかった。深夜とはいえ駅前通り周辺はまだ明るかったし、遠目でも十分把握できた。あれは、海未ちゃんだった。
背の高い見覚えのない男が、海未ちゃんに自分の上着をかけてやるのを見た。
声をかければよかった。と、後になって思ったってもう遅い。二人が自転車で過ぎ去るまで、まるで恋愛ドラマのワンシーンのようなその光景を、俺はただ傍観していたのだ。
「み、見間違いじゃないの……?」
口元に引き攣った笑みを浮かべた秋吉が、おそるおそる聞いた。
「ぜったい見間違いだってそれ! ほ、ほら! 唯太あれじゃん、乱視じゃん!」
「残念ながら、そのとき俺ちゃんと眼鏡かけてたから」
「……いやいやいや、ちょっとまってよ。なんで駅前通り? 飯屋? だって海未ちゃん、引きこもりのニートじゃないの? つうかその男は誰なのよ?」
「過程は知らないしその男のことも知らないけど、デートしてたんじゃないかな」
すべての問いかけを一蹴するように言えば、秋吉は絶句した。
「俺には、そう見えた」
秋吉はもはや聞こえていないようだったが、それはかまわない。これは、慧太に言ったつもりだった。
慧太は何も言わない。相変わらずこちらを見ようとしない、うつむいたままの横顔からは、何かを諦めたように眉間のしわが消えていた。
「慧太!」
突然、秋吉がカウンターテーブルをバンと叩いた。
「なに黙ってんだよ! いいの!? なに関係ねえみたいな顔してんだよ! 慧太、海未ちゃんのこと大事なんじゃないの!?」
苛立ちをあらわにしたその怒声に、ダイニング席の客も、テーブルの後片付けをしていたバイト仲間も、ちらちらとこちらの様子を窺っている。今はスタッフルームにいる店長も、声を聞きつけてやって来るかもしれない。
いつもだったら、と思う。
いつもだったら、慧太と秋吉が喧嘩をはじめたら、俺が仲裁するのだ。二人は一見真逆なくせに、実は同じくらい短気だから昔からすぐに喧嘩をはじめる。だから、間にいる俺が自然と仲裁役に収まっていた。最初はやんわりと言葉で、それでもやめなければ拳骨で。
そうだ。俺が止めなければ。
二人と違っていつもいつも傍観しているばかりの、俺が――。
「どうだっていいだろ」
吐き捨てるような声が聞こえた。
たしかに俺の隣から届いたはずなのに、それは壁を隔てた向こう側からの声のように遠かった。
けれど、その言葉の響きは、俺の心臓を揺さぶるのには十分だった。
ああ、そうなのか。
どうだっていいのか。
知らない男といた海未ちゃんのことも、憤然と声を荒げる秋吉のことも、ただ傍観しているだけの、俺のことも。
慧太は、どうだっていいのか。
――ガシャン!
ふいに、何かが派手に割れるような音が耳に飛び込んできた。
視線を足元へ下ろす。床には粉々に砕けたガラスの破片が散らばっていた。破片のかたちから、割れる前のそれはビールグラスであったことがわかった。さっきの音はこれだったのか、とぼんやり考える。
床から目を上げれば、カウンターテーブルに寄りかかるように背を預けている慧太がいた。背中からテーブルに倒れ込んだ体勢で、その右の頬は、痛々しく赤く腫れていた。
慧太は、口の端に血を滲ませ、ひどく驚いたように俺を凝視している。
「……どうだっていいって、なに」
誰の声だ、と思うが、すぐに理解する。
「友だちだろ」
これは、俺の声だ。
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