「ごちそうさまでした」
店を出て、日向くんにぺこりと頭を下げた。
会計をするとき、奢ってくれるとは言ったけどそんなのやっぱり悪くて、あたしはそそくさと自分の財布を出した。が、やんわりと断られてしまった。結局最初の申し出通り、日向くんがあたしの分まで支払いを済ませてくれたのだ。クリームソースのオムライスちょっと高かったし、申し訳ない。
「そんな、だって俺が誘いたくて誘ったんだから。付き合ってくれてありがとうございました」
うっ、なんてやさしいんだ……。
やっぱり告白されないなんてうそだと、あたしは確信する。日向くんをすきになる女の子はきっとたくさんいることだろう。そして、日向くんがすきになる女の子は幸せだな、と思う。
そんなことを考えていたら、すごく不思議な気持ちになった。どうして、ここで今こうしているのがあたしなのだろう、と。
夜風が強く吹いていた。冷たいそれに煽られて、くしゃみが出た。
給料日はいよいよ来週だ。お給料が出たら、さっそく上着を買わなきゃ。
どんなのがいいかな。動きやすくて軽くて、でもちゃんとあったかいのがいい。貯金もしたいし、安いものしか手が出ないけど……。
ぼんやりと考え事をしていたら、何かがあたしの両の肩をふわりと覆った。
知らないにおい。知らない温もりが、あたしの冷えた体をやさしく包む。顔を上げると、さっきまで着込んでいたはずのジャケットを脱いだ日向くんが、あたしを見ていた。すぐに体がふれてしまいそうな、とても近い距離で。
「……あたし、だいじょうぶだよ。日向くん風邪ひくよ」
「俺はいいの」
敬語がとれた少し怒ったような口調で言うと、日向くんはあたしからくるっと背を向けた。
店の端に停めた水色の自転車から鍵が外れる音が聞こえた。まもなく、自転車に乗った日向くんがあたしの前までやって来る。
「どうぞ」
乗ってください、と促されて、あたしはきょとんとした。
いつもは、日向くんは自転車を押して歩いてあたしをアパートの近くまで送ってくれる。しかし今日は、どうやらあたしを荷台に乗せて送ってくれるつもりらしい。
「今日はいつもより時間遅いですし。こっちのほうが断然速いですから」
日向くんのごもっともな意見に頷いて、あたしは素直に荷台に跨った。二人乗りははじめてだ。両足が地に着かない。ひどく不安定で、走り出す前からちょっと恐怖だった。
掴まる場所に困っていたら、ふと前から伸びてきた手があたしの手をとった。そのままあたしの手は誘導されてゆき、日向くんの腰に回される。自然と、日向くんの背中にぴったりくっつく態勢になった。体重をほとんど預けてしまうことでだいぶ安定した気がする。
「こわい……ですか?」
振り向いて聞かれた言葉に対して、首を横に振る。
「ありがとう」
お礼を言うと、日向くんが微笑み、それから前に向き直るとすぐに自転車が動き出した。ガタンと揺れた拍子に、手に力が入る。だけど、もうそんなにこわくはない。
水色の自転車が歩道寄りの車道を走る。景色が流れていく速度がゆるやかに感じるのは、きっと気のせいではないのだろう。
ペダルを漕ぐ大きな足は、きっともっと速く自転車を走らせることができるはずだ。だけど日向くんは今、それをしない。
「――岡部さん」
声が降ってくる。
「また、誘ってもいいですか?」
どうしてあたしなのかな。
あたし、どうしてここにいるんだろう。
頭がふわふわしていた。なんだろう、ずっとぼうっとしていて、現実感が欠けているような。夢のなかのような。
あたしは言葉に対して小さく頷いたけれど、前を向いている日向くんには伝わっていないことに気づく。
「いいよ」
すぐ横を通り過ぎていく車や、頬を滑っていく風の音にかき消されそうになりながら、声を張ってあたしは答えた。
日向くんがこちらに振り向いて、笑う。うれしそうに笑う目尻がやさしかった。
――笑った顔、きらいじゃなかった。
滅多に笑わないけど、笑うと、ちょっと幼くなるのが、きらいじゃなかった。
ああ、まただ。
自分の思考じゃないみたいだ。
ふいに現れて、消えていく。遠くなってく。
あたたかいジャケットからは、知らないにおいがする。胸の奥がじんじんする。向けられるやさしさが、どうしてか痛いのだ。
やさしくされるたび、あたしの心の一部が、少しずつ剥がれていくみたいに。
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