明かりが落とされた室内は、外よりもほんの少しひやりとしている気がした。
「……ただいま」
返事がないのはわかっているくせに、ただいま、と呟いた。
部屋の奥へと進む。閉められたカーテンを少し開けると、月明かりがこぼれてくる。今夜は満月。照明をつけることすら億劫で、月明かりをたよりにしてあたしはソファへ座り込んだ。
足がじんわりと痛い。疲れたな、とぼんやり思う。薄着なせいで寒気がしたので、毛布にくるまって、ただじっとする。
しばらくそうしていると、ジーンズのポケットから振動を感じた。慌ててポケットへ手を突っ込み、ケータイを取り出す。一週間前に買ってもらった、新品のケータイ。
手に取ったときにはすでに振動は止んでいた。ランプが青く点滅している。
「……」
ディスプレイには【メール1件】と表示されていた。
無意識に息を詰めていることに気づいた。苦しいくらい、心臓がドキドキしていることにも。
【メール1件:日向くん】
差出人を確認して、それでやっと呼吸が楽になった。ほっと息を吐きながら、受信メールを開く。
From:日向くん
Sub:お疲れさまです!
こんばんは!
日向です。バイトお疲れさまです。
今日もくだらないことばっかり聞いてすいませんでした。でも、今日も楽しかったです。岡部さんと話すと何でも楽しいです。
ゴマさん可愛かったですね。
俺、岡部さんに面白いって言われて、そのときはちょっと微妙な気分だったんだけど、でも岡部さんが笑ってるの見たら、まあいいかって思いました。
って、意味わかんないですよね。すいません、気にしないでください!
今夜は寒いから、あったかくして寝てくださいね。
おやすみなさい。 メールをすべて読み終えると、ゴマさんをなでた日向くんのやさしい手を思い出した。
それから、どうしてか思い出したのは、あたしの髪をくしゃっとするちょっと乱暴な手だった。あたしが熱を出したとき額にふれた、あの冷たい手。
どうして今、思い出すんだろう……。
おぼつかない指を動かす。
受信メールボックスの一番下、このケータイに一番最初に届いたメールを開いた。
From:けーた
Sub:無題
アホ猫
バイト、頑張れ。 あたしは、返信をしなかった。
たったこれだけの文章に、息が苦しくなるのだ。
「……心臓、いたい……」
ケータイを閉じた。ソファに倒れるように横になって、毛布にくるまった。
けーたは、あたしがバイトに行っている間に目を覚まし、出かけてしまう。この部屋に帰ってくるのは早朝で、その頃あたしはソファで眠っている。
けーたはあたしを起こさないし、あたしも目を覚ましても、けーたを起こさない。あたしがバイトをはじめてから、あたしたちは同じ場所にいるのに、お互いの姿が見えない。
他人と暮らしている。
あたしたちは最初から他人だったはずなのに、そんなことを今さらのように思うのだ。
毛布のなかで、もう一度ケータイを開いた。
未送信ボックスに、一件。
To:けーた
Sub:Re:
けーた、メールありがとう。がんばるよ。
けーたも、バイトもギターもがんばってね。
けーた。
バイト代が貯まったら、あたしここを出てくね。 送信ボタンを押せないあたしは、毛布にくるまりながら、今日もけーたの帰りを待っている。
おかえりもただいまも言えなくなってしまったのに、それでも、ばかみたいに。
バイトをはじめるまで、ずっとこの部屋にいたときには気づかなかったことがある。
ソファには、けーたの匂いがある。
煙草と香水が混ざったような、甘くて苦くてちっともやさしくない、けーたの匂い。
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