部屋に夕陽が差し込む頃、扉が開く音が聞こえた。足音が近づいて、あたしにふっと影が落ちる。

「なに書いてんの」

 ローテーブルの上の書きかけのそれを、けーたが屈むようにして覗き込んだ。

「……りれきしょ……」

 あたしがわざわざ答えなくたって見ればわかるだろうけど、とりあえず答えた。
 履歴書を眺めながらけーたは、ふうん、とだけ相槌を打った。寝癖で跳ねた毛先があたしの頬にふれている。くすぐったい。

「なに、バイトすんの?」
「うん」
「ふうん……」

 落ちつかない心地のあたしに対して、けーたは特に何も言ってはこなかった。
 やっぱり、なにも言わない。
 何か言われてもうまく答えられる自信なんかないし、どこかでわかっていた気がするのに、胸が苦しくなるのはどうしてだろう。
 高卒、資格なしのさみしい履歴書を見つめる。書いてみて、あまりの余白の多さに改めて思い知らされた。あたしって、なんにもない。

「けーた、あのね……ここの住所と、あと、電話番号おしえて」

 あたしはけーたの顔をうまく見られずに、途切れ途切れに訊ねた。
 はあ? だとか、めんどくさいだとか、もしくはため息が真っ先に聞こえてくるかと思ったのに、しばらく待ってもそれは聞こえてこない。
 ふと、目の前に差し出されたのは、一通の白い封筒。どうやら携帯電話の請求書のようであった。封筒にはこの部屋の住所が記載されている。

「けーた、けーたのケータイ番号もここに書いていい?」
「住所はともかく、なんでおまえの履歴書に俺のケー番書くんだよ」
「だって、あたしケータイない」
「…………」

 ここにきて吐かれた「めんどくさい」という名のため息。

「明日買ってやるから、バイト代で返せよ」

 仕方なさげにそう言って、浴室のほうへ行こうとするけーたのスウェットの裾を、あたしは思わず掴んだ。
 まだ何かあるのか、と薄茶色の目があたしに訴えている。いつもならこんなジト目なんてことないのに、今のあたしにはかなり堪えた。うつむいて、スウェットの裾から手を離す。
 気まずい沈黙の後に聞こえてきたのは、やっぱり、ため息だった。

「……なに?」

 それでも、その声が少しやさしく聞こえたのは、あたしの気のせいだったらいい。
 けーたがあたしの隣に座った。あたしは相変わらずけーたの顔が見れないままで、おずおずとけーたの前に、履歴書とペンと、それから、あたしが書いたメモを並べた。

「……代筆、してほしい」

 やっとの思いで、それだけ告げた。
 けーたは何も言わない。骨っぽい指が、メモをつまみ上げる。
 メモには、あたしが捨ててきた場所と、人の名前が記されていた。高校を卒業したその日、逃げるようにどちらも捨ててきたはずなのに、あたしは今でも空で書けるほどおぼえている。
 おいていかれて、惨めになった。ひとりぼっちになった。捨ててきたのだ。もう戻れない、二度と帰ることはないと決めた、あの場所。
 けーたは、無言のままメモをテーブルに戻した。ペンを取ると、メモに書かれた通りに保護者欄の余白をすらすらと埋めていく。はじめて見るけーたの字で書かれた場所と名前は、あたしの知らないもののように見える。

「……おまえ」

 すべて書き終えてもペンを離さずに、けーたが口を開いた。けーたは履歴書の一番上の、あたしの名前のところを見ていた。

「苗字、岡部っていうの?」

 岡部海未。
 ずいぶん久しぶりに書いた自分の名前。ここへ来る前は、名字で呼ばれることがあたしのふつうだった。

「……うん」

 流れていく雲を見上げるように、ぼんやりとあたしの名前を眺める横顔。ふうん、と興味も関心もない声で言ったっきり、何も言わない。それだけ。だから、あたしも何も言わない。なんにも言えない。

 夕陽が静かに部屋を染めている。そこにぽっかりと浮かぶようにいるあたしたちは、世界に取り残されたみたいだった。
 世界にたったふたり。いっそのことそうならばよかった。でも、けーたはそうじゃない。世界に取り残されてしまったのは、あたしだけだ。
 あたしには、けーたしかいない。でも、けーたはそうじゃない。だから隣にいるのに、こんなに遠い。

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