目を開けたら視界がぼんやりと歪んでいた。
 ゆっくり瞬きをしてみる。そうしたらぽろりと一筋、こぼれ落ちた。
 体を起こし、手の甲で濡れた目元や頬をぐしぐしと拭う。瞼も頭も重い。

「……朝ごはん……」

 そっと顔を上げた。けーたの寝室に繋がるドアはひっそりとしていて、まだ開かれる気配はない。ドアを見つめながらあたしは逡巡する。けれど結局、ドアを開けることはしなかった。
 あたたかい毛布を名残惜しみつつ退けて、ソファから下りる。フローリングにつけた素足から体温を吸いとられていくみたいに、そこから体が冷たくなっていく。
 朝ごはん、食べなきゃ。


 はじめてけーたがギターを弾く姿を見た。
 その夜、はじめてけーたに抱きしめられて、そのままはじめて、けーたとセックスをした。
 言葉も何もなかった。お互いの混ざりあう体温とか、けーたの肌の熱さとか、舌や指先の感覚とか、そういうのを感じながら、あたしはひどく空虚な気持ちだった。抵抗の一つもせずに、涙も流さないで。
 なのに行為の間は、けものに噛みつかれているようにずっと痛かった。その痛みに、あたしは溺れていたのだ。
 翌日、目を覚ますとけーたはどこにもいなかった。じんじんと痛むけものの痕と、メンソールの煙草の匂いを残して。おいていかれたのだ、とそのときは思ったけれど、けーたは帰ってきた。昨日のことだ。
 思い出したように涙腺がゆるみ、散々ぼろぼろに泣いて、泣き疲れて、いつのまにか眠っていたあたしが目を覚ました場所に、けーたはいた。

「……すげえ顔」

 ソファの上で目を覚ましたあたしを見下ろして、けーたはそれだけ言った。いじわるな笑い方をしていた。でもあたしは言葉を失った。だって、部屋に差し込む西日で少し赤みを帯びた薄茶色の目は、少しも笑っていない。
 けーたは、何も言わないあたしの髪をくしゃっとなでて、あたしの横を通りすぎ、寝室へ入って行った。
 あたしたちは、それだけだった。
 何も言わないけーたにも、何も聞けないあたしにも、それだけのあたしたちにも、どうしてか胸が痛んだ。
 けーたは帰ってきてすぐにバイトへ出かけた。あたしは、昨夜コンビニで買った賞味期限の切れたおにぎりを牛乳といっしょにのろのろと口に入れながら、その背中を見送っていた。
 ギターケースのない細身の背中が、昨日よりもずっと遠かった。

 抵抗していればよかったのかな。泣いていればよかったのかな。ライブに行かなければよかったのかな。
 そんな後悔にすらならない思考が、映写機から映し出されるスライドショーのように頭のなかで一枚一枚流れていく。

(ああ、あの日、けーたの後を馬鹿みたいに追わなければよかった)

 最後にその思考が映し出された後、あたしはローテーブルに突っ伏した。
 あたしたちはお互いが引いていた線を、お互いに越えてしまったのだ。それは、この曖昧な生活を続けるのなら越えてはいけない線だった。
 なにも変わらないままでいたかった。変わってしまうのなら、けーたのことなんかなにも知らないままでいたかった。猫扱いでよかった。
 でも、そうじゃないって、けーたに“あたし”として見てほしいと思っている自分になんて、あたしは、気づきたくなんかなかった。
 いつかは終わりがくる。こんなぬるま湯みたいな生活がいつまでも続くはずないって、そんなのは無理だって、わかっていたはずなのに。
 あたしは、何ひとつもわかっていなかったんだ。

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