「……勝手に、いなくなるな」
目の前の華奢な肩に、額を押しつけた。
紫煙のように自分の口から吐き出された言葉の意味を、考えたくなかった。体が重い。
海未は動かない。息を呑む空気を感じた。だけど海未は、ただじっとしている。
「……けーた……」
ややあって、海未が、消えそうな声で俺を呼んだ。それは今この瞬間俺にしか聞こえない声だった。優越感にも似た感情をおぼえて、自嘲のような笑みが漏れる。
「けーた、今日見たよ」
「……なにを?」
ライブ、と海未が言う。
「秋吉くんと唯太くんと、けーたがギター弾くの、見たよ」
「は? なにそれ……。知らなかったんだけど」
「かっこよかったよ」
「……嘘下手だな、おまえ」
すぐに、嘘だけど、と返ってくる。ほんとに嘘かよ。
「けーた」
「……なに?」
肩に埋めた鼻先からは、海未の匂いがする。
この匂い、俺はいつから知っていたのだろう。海未のことなんか、なにも知らないのに。
名前、年齢、猫のような目。俺を呼ぶ、舌足らずな声――。
「けーた、おかえり」
なにも知らないのに。
それなのに、俺たちは馬鹿みたいにいっしょにいる。
おかえり、なんて言いながら、海未も、あの猫のようにいなくなるのだろう。この場所に帰ってきたことに安堵したって、いつかはきっと当たり前のように、俺の前からいなくなる。俺たちにはたしかなものなんて、何一つないから。
いつかいなくなる。当然だ。わかっていたはずだ、最初から。
それなのに耳鳴りが止まないんだ。ずっと、あのときから。
ああ、あのとき、なんで……。
息を呑む空気を感じた。
いつも小さい小さいと思っていたけれど、抱きしめてみれば、ほんとうに小さな体だった。
なあ、おまえ、ツナ缶ばっか食ってるからでかくならないんだよ。ソファで寝てばっかだし。素直だと思えば、生意気な口利くし……。
意識の片隅で、ビニール袋が床に落ちた音が聞こえた。
海未は、俺の腕のなかでピクリとも動かない。途切れがちな呼吸は、少し苦しそうだった。
体温が混ざりあっていく。ふたつの息遣いだけが聞こえている。指先の痛み。耳鳴り。猫のような目。俺を呼ぶ声。無意味な後悔。
もう、なにも考えたくない。
掴んだ手首から鼓動を感じた気がした。
ソファの上に仰向けに倒れた小さな体。乱れた前髪の間から、満月のような目が俺を見ている。俺の下で、海未が、俺を見上げている。
なんか言えよ、と思う。
なあ、なんか言えよ。なに黙って見てんの。
「抵抗、すれば」
声は、自分の喉から発せられたのか疑うほどに、温度がなかった。
しばらくソファに押し倒した海未を見下ろしていた。でも海未は、相変わらず俺を呆然と見上げるだけで、なにも言わない。抵抗の一つもない。それが無性に苛立った。
抵抗しろよ。やだとか、なんとか言えよ。泣いてでもくれたら、きっと俺はこの手を離してやれる。
だから、なあ、
「……アホ猫」
頼むから。
目の前の首筋に噛みついた。息を呑む空気を感じたが、それだけだった。
苛立ちが消えない。感情を伴わないのに止められない行為が、ひどくむなしかった。
白い首筋についた血のにじむ痕を、舌でなぞった。あたたかい肌を、痺れる指先でふれた。
夜だけが静かに深くなっていく。
俺がふれている間、海未の目は、俺を見ることはなかった。
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