昔、実家の庭に猫がいた。
首輪のない野良だったが、兄が食べものを与えてから、猫は頻繁に庭にやってくるようになった。
茶色のまだら模様だった。まるい目が好きだった。野性的な太い足で、かすれた声で鳴いた。
エサをねだる声だなんてわかっていたけど、まるで自分の名前を呼ばれているような錯覚を、当時の俺はしていたのだ。
猫は、いつのまにか、しかしそれは当然のことのように姿を見せなくなった。
ように、ではなく、当然だ。そんなことはわかっていた。なにしろ家の猫じゃなかった。
それなのに、今でもたまにあの猫の声をふいに思い出すことがある。思い出しては、ああ、とぼんやり後悔するのだ。
ああ、あのとき、首輪つけとけばよかった。
なんて、馬鹿らしい……。
日付が変わろうとしていた。
部屋の中は夜に染まり、青白い光がベランダの窓からこぼれていた。カーテンが開かれたままの室内はシンと静寂している。寝息のひとつも聞こえてこない。
重いギターケースを背負ったまま、俺は部屋の中心で立ち尽くしていた。
白いソファの上で力なく横たわる毛布。まるで生命の絶えた生き物のようだった。
しばらく、ぼんやりと、無人のソファを見下ろしていた。外からかすかに電車が走る音が聞こえた。終電だろうか、と思う。
「……煙草、」
ジャケットのポケットからマルボロメンソールを取り出すが、中身は空だった。
長く深いため息を吐く。俺はギターケースをようやく下ろして、脱力するように目の前のソファへと身を沈めた。
「……アホ猫……」
ああ、また思い出す。あの無意味な後悔を。
耳鳴りが止まない。ピックをつまんでいた指先が痺れるように痛い。全身の感覚が鈍いのに、その痛みだけがやけに鮮明に生きている。
と、そのとき、玄関のほうからドアが開く音が聞こえた。ひたひたと、小さな足音がこちらへ近づいてくる。
「……けーた……」
舌足らずな呼び方。そちらへゆっくりと顔を向けると、薄暗闇のなかで満月のようなまんまるの目が俺を見ていた。
「……なにしてんの」
煙草も吸っていないのに、俺の声はひどくかすれていた。
海未は、ソファから離れた場所に立ったまま、片手を軽く上げた。カサリと乾いた音を立てて、その手が提げたビニール袋がゆれる。
コンビニ、と唇が動く。
「なんか、寝れなくて……。コンビニ行ってた」
「あ、そ……。なに買ったの」
「チョコのお菓子と、ツナマヨのおにぎりと、あと牛乳」
「牛乳は冷蔵庫にあるだろ」
「あるけど、並んでるの見たら手が勝手に……」
「……俺の煙草は?」
ソファから立ち上がる。
「……未成年だもん」
海未の前に立つと、拗ねたような声が返ってきたので、思わず口の端を持ち上げた。
未成年か。そういえば未成年だったっけ。年なんかいつ聞いたんだ。ああ、そうだ、こいつが熱を出したとき。
あのとき掌でふれた額は、じわりと熱かった。
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