今日、けーたは昼頃に出かけた。
 早朝、いつもどおりバイトから帰ってきて、シャワーを浴びてちょっと眠った後、あたしといっしょに朝ごはんを食べた。それから、またいつもどおり夕方まで眠るのだろうと思っていたのだけど、三時間も経たないうちに、けーたはまた部屋を出て行った。
 「いってらっしゃい」も言わずに見送った背中には、出会った頃に見た、あの黒いギターケースがあった。

 あたしがけーたに拾われたのは、まだ寒い春だった。いつのまにか季節は秋になろうとしている。思えばそんなに時間が経過していたことに気づく。
 けーたがギターを弾くことは知っている。だけど、あたしは、経過した時間の中で、まだ一度もけーたがギターを弾く姿を見たことがなかった。
 今日のライブに誘ってもらったときに、秋吉くんと唯太くんにそのことを話したら、あからさまにはしなかったけど、二人ともかなり驚いていたみたいだった。
 あたりまえか、とぼんやり思うあたしは、なんだか他人事のようだった。


 鼓動が、少しずつ速さを増していくのがわかる。
 なんでこんな気持ちになるんだろう。目を閉じてしまいたい。耳をふさいでしまいたい。ドキドキと高鳴るこの鼓動は、あのときとは異なる種類のものだった。
 けーたと出会った日。けーたのハミングを聴いたあの日。まだあたしのなかに、けーたがいなかったあのときに感じたものとは、これは、きっとちがう――。

 ギターの音が、きこえる。
 顔を上げれば、その光景に目が眩んだ。
 まぶしい。視界をふさいでしまいたいのに、それすらもできなくて、あたしはただ立ち尽くした。
 けいた、と知らない誰かの声が聞こえた気がした。
 見上げた場所には、けーたがいた。
 バンドは四人構成で、けーたは、中央のボーカルの傍らに立っていて、角が生えたような尖った形のギターを弾いていた。
 あたしはその姿を、夢を見ているような、水槽越しから見ているような、まるで今この場所にいないような、そんな心地で見ていた。
 
 ――誰か待ってんの?

 ――それ、ちょうだい。

 ――おいてくよ。

 ――名前ミケとかでいい?

 ――じゃあ、名前なに。

 歌も、観客の声も、ギターの音も、ちっとも耳に届いてこない。
 はじめてギターを弾く姿を目の当たりにしながら、どうしてか聞こえてくるのは、あの日のけーたの声だった。

 ――海未

 歌詞を口ずさむみたいに、名前を呼ばれた声をおぼえている。
 いつも思い出さないようにしているんだ。理由もわからず泣きそうになるから。苦しくて、痛くて、泣きたくなるから。
 けーた、あたしほんとうは、けーたがギターを弾いてるのなんて、見たくなかったよ。けーたのことなんかなんにも知らないでいたかった。毛布にくるまって、なんにも知らないままで、眠ってしまいたかった。だって、苦しいのも痛いのも、きらいだよ。
 もし、あたしがほんとうの猫だったなら、きっとこんなふうに思うことはなかったのに。
 そう言ったら、笑うのかな……。

 音楽に合わせて、観客が手を振ったり跳ねたりしている。小さな空間はいよいよ弾けるほどの熱気に満ち満ちていた。
 けーたは、ギターの弦をプラスチックの破片のようなもので弾く。伏せた顔は、まるでなにかを堪えるように唇を噛んでいた。もっと楽しそうに弾きなよ、とあたしは思った。
 ねえ、なんでそんな顔して弾くの。全然楽しそうじゃないね。みんなに失礼だよ。

(ねえ、泣きそうだね)

 そういたずらに言ってやるけど、あたしの声なんか、けーたにはこれっぽっちも聞こえていない。
 こんなに近くにいるのに、いつだって。
 
 まぶしい。視界がゆらめいている。
 ああ、楽しくないな……。
 どこにも行けないあたしは、頬をつたう熱に気づかないふりをして、ただステージを見ていた。

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